「歴史は繰り返す」といわれます。歴史には目的があり、それが果たされないと、もう一度その目的を達成するために、歴史は繰り返すことになるというわけです。
人生もまた目的があり、これが果たされないと、おのおのの人生を繰り返すことになります。
今私たちは、新しい出発をする時を迎えています。
その地点がマイナスからなのかゼロからなのか、はたまたプラスからなのかは分かりません。
いずれにせよ、歴史と人生の目的を果たすための新しい出発をする時なのだと、特に7月に入ってそのような考えが心に浮かんできて仕方ありません。
ポッと、『原理講論』の一節が脳裏に現れました。
「信仰生活は、自身を供え物の立場に立てておいて、善と悪に分立させ、神が喜ばれるいけにえの供え物としてささげる生活である」(338ページ)
「アブラハムを中心とする復帰摂理が我々に見せてくれた教訓」の中の一文です。

信仰を持つことを決心した時、韓国での任地活動で苦労した時に、よく意識していたみ言です。今は還暦も優に過ぎた年齢になりましたが、20代の頃のみ旨への献身の情熱が呼び起こされる内容です。
すると今度は、「象徴献祭」と「実体献祭」という言葉が降りてきて、頭から離れません。いずれも原理講論にある言葉ですね。
「象徴献祭」の意義とその目的について、原理講論ではこう記しています。
「『象徴献祭』をささげる第一の目的は、神の象徴的実体対象である万物を復帰するための蕩減条件を立てるところにある。……『象徴献祭』をささげる第二の目的は、実体人間を神の方に復帰するための、象徴的な蕩減条件を立てようとするところにある」
「実体献祭」についてはこうあります。
「『実体献祭』は、あくまでも内的な献祭であるので、万物と人間の創造の順序がそうであったように、外的な『象徴献祭』をみ意(こころ)にかなうようにささげた基台の上でのみ成就されるようになっている。ゆえに、『象徴献祭』をみ意にかなうようにささげて、万物を復帰するための蕩減条件と、人間を復帰するための象徴的な蕩減条件とを同時に立てたのちに、この基台の上で、再び、人間を実体的に復帰するための蕩減条件として、『実体献祭』をささげなければならないのである」
原理講論を改めて読み返しながら、ちょっと飛躍しますが、私はこう考えました。
“そうだ、人生とは、万物と人間で苦労してこその人生なのだ!”
家庭生活も、教会での歩みも、社会での活動も、全てはみ意にかなった象徴献祭と実体献祭をささげるためにあったのだ…。
突然、腑(ふ)に落ちて、「そうだったのか!」と、わが人生の過ぎし40年路程をしばし振り返りました。
後悔と反省の念にかられることしきりですが、これからの人生に希望がないわけではありません。
「よし、もっと自覚的に主体的に象徴献祭と実体献祭をささげる人生を生きていこう。残されているのは3年路程かもしれないし、7年路程かもしれない。もしかしたら21年? いずれにせよ、新しい出発(やり直しのため)のみ言を天は下さったのだ」
さて、この7月。くしくも『真の父母様の位相と価値(真の父母論)を中心とする新標準原理講義案』が発刊されました。
まさに、シナイ山から下りてきたモーセが持ち帰った石板を見るようです。
歴史全体も、原理のみ言から新しい出発とする時を迎えているのかもしれません。
2026年7月。
私の人生も、新しい出発です。
★よろしければ、「♥いいね」をポチっとお願いします!★
(則)





