「それでも教会に通ったのは、なぜですか?」
「教会が好きだったからです」
今回お話を伺ったのは、2021年に伝道され、2023年に祝福を受けられたKさん。2022年の安倍晋三元首相の暗殺事件に端を発する偏向報道の中でも教会に通い続けたのは、ただ「教会が好きだったから」というシンプルな理由でした。
Kさんの証しには、私たちがよく耳にするような試練や葛藤、犠牲といった話が全く出てきません。正直、私は少し焦りを感じました。なぜなら、そうした困難を乗り越える話が伴わない証しは、あまり経験がなかったからです。
私は思わず「葛藤はなかったのですか? 苦労したことはなかったのですか?」と質問して、答えを誘導しようとしました。しかし、Kさんは終始笑顔で、「私は家庭連合に出合い、祝福を受けられて幸せです。神様に感謝しています」と答えるばかりでした。
そのとき私は、「ああ、自分が間違っていたのかもしれない…」と感じました。これまでの私は、試練を信仰の力で乗り越えることこそが、その人の信仰の深さを証明するものだと考えていたのです。与えられた試練を感謝して乗り越えることこそが、神様に喜ばれる道だと信じていました。
しかし、本当にそうでしょうか? 私の夫が「神様の欠点は子供を信じすぎることだ」と言っていたことを思い出しました。神様は、いつも私たちを信じてくださっています。旧約聖書のヨブ記で、「ヨブの信仰を証明せよ」と神様に問い詰めたのはサタンでした。
私は祝福子女として生まれ、人生の喜びも苦しみも神様と共に経験してきました。その経験からか、時に信仰歴の短い方や遠い国の食口を見ると、「この人は信仰を続けられるのだろうか?」と、傲慢な思いが小さくよぎることがありました。
しかし、どうして私がその人の信仰を測ることができるでしょうか。私自身、未熟な身でありながら、何度も神様に「私を信じてください」と祈ってきたのですから。
神様の愛の前では、試練を乗り越え、信仰の深さを証明する必要などないのかもしれません。ただただ、神様に喜びをお返しするKさんの姿を通して、私は本当に大切なことを教えていただいたように思います。
Kさんの証しは、『祝福家庭』秋季号(118号)の「家庭青年に聞く」のコーナーで掲載される予定です。皆さんもぜひ、手に取って読んでみてください。
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