光言社 編集者ブログ

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2020年12月17日

仏教の原典を求めて単身、 ヒマラヤを越えた明治の怪僧

 河口慧海(えかい)というお坊さんをご存じでしょうか。

 この人、何がすごいって、仏教の原典を手に入れるための執念がすごいんです。

 

鎖国のチベットに命懸けで潜入

 時は明治。

 黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶、慧海は、仏典の翻訳に疑問を持ち、唯一原典が残っているチベット(西蔵)に行くことを思い立ちます。

 ところがその頃、チベットは厳重な鎖国政策を敷いており、シナ(当時)など数少ない国としか交流していませんでした。ですから日本人がチベットに入るのは至難の業。そこで慧海は、シナ人の僧侶と偽って入国することを決めます。

 

 インドのネパール国境近くでチベット語を1年かけて学んだ後、ひそかにチベットに向けて出発。途中、強盗に遭ったり、出会った人に本当にシナ人かと疑われたりと、なかなか順調にはいきません。

 関所のない間道を選びながら、満足な登山の装備もないまま、単身、5000メートル級のヒマラヤの峠を幾つも越えます。空気の薄い極寒の山中で猛吹雪に遭い、にっちもさっちもいかなくなったときには、「えいっ」と座禅を組み、呼吸を調節しながら一夜を明かす豪胆さ。それで凍死しないのですから、天が守ったとしか言いようがありません。

 

 そういう中でも、ヒマラヤの山並みを眺めては優雅に和歌を詠むなど、実に変幻自在の魅力的な人物なのです。

 

ラサの病に苦しむ人を助けて評判に

 明治34年(1901年)3月、慧海は無事に首都ラサに到着。日本を出てから実に4年がたっていて、慧海は36歳になっていました。

 慧海はラサの大学に入り、勇躍、チベット仏教の学習や経典の蒐集(しゅうしゅう)にいそしみます。

 

 そのかたわら、医療が遅れているチベットにあって、日本では誰もが知っているような、風邪や腹痛の対処法、骨接ぎの知識などを使って、無償でラサの人々を助けるようになります。それが評判となり、大学のみならず政府の要人にまで厚遇されるようになっていきます。ところが逆にそれが災いし、慧海の素性を疑う人が出てきたのです。

 身の危険を感じた慧海は、明治35年(1902年)5月、大学の師などから譲り受けた仏典とともにラサを脱出。これで大団円を迎えるかと思いきや、その後、インドに滞在中、チベットで慧海と交流のあった人たちが次々に投獄、処刑されていることを知るのです。

 世話になった人たちを何とか救済したいと八方手を尽くしますが、かなわず、慧海は傷心のまま日本に帰国します。

 

慧海の元気のもとは「はったい粉」

 その顛末(てんまつ)は『チベット旅行記』としてまとめられています。

 私が持っているのは、19784月初版発行の旺文社文庫で1983年に重版されたもの。668ページに及ぶ大作ですが、口述筆記を生かした文体で、読む者を飽きさせません。

 たび重なる引っ越しにも負けず、今も手元にありますが、ご覧のようにボロボロです。

 この本には、当時のチベットの風俗や習慣も克明に記されています。

 なんと当時のチベットには、一夫多妻ならぬ「一妻多夫」や、埋葬の方法が「鳥葬(遺体を野山や岩の上などに置き、葬送を鳥類にゆだねる葬儀の方法)」など、驚くべき風習がありました。

 

 また、寒い地域なので脂っこい食べ物が多く、そのことについて慧海は、「チベットの御馳走というのはごくしつこい物ばかりで、……あっさりとお茶漬に香(こう)の物というような御馳走は夢にもいただけない」とぼやいています。

 肉は一切食べず、一日一食を貫いていた慧海がチベットで好んで食べたのが、滋養に富む「麦焦がし」。いつもどんぶりいっぱい、どっさり食べたそうです。

 この「麦焦がし」は、別名「はったい粉」。真のお父様のご路程のあちこちに登場する「はったい粉」は、遠いチベットでも日本の僧侶のおなかを満たしていたのです。

 

慧海の死後、その真価が明らかに

 慧海はこの本で、チベットの風習や生活様式を辛辣に批判しつつも、チベットへの深い愛を吐露しています。冒険奇譚(きたん)としても一級であるとともに、公正な観察眼に基づいた民俗研究においても優れた書だと思います。

 

 ところが当時、この記録が発表されるや、「あんな所を通れるはずがない」と、随分ほら吹き呼ばわりされたようです。

 そういう中、慧海は経典の翻訳や研究、チベットに関する著作、蔵和事典の編纂などに後半生を捧げ、昭和20年(1945年)、80歳で、その桁外れで豪快な生涯を閉じました。

 

 昭和33年(1958年)になって、地理学者で文化人類学者の川喜田二郎氏が慧海のルートをたどり、慧海の話が真実であったことを確認しました。慧海が立ち寄った村や川も、ちゃんと説明どおりの場所にあったそうです。

▲慧海のたどったルート(旺文社刊『チベット旅行記』から)

画像をタップすると拡大してご覧になれます

川喜田氏は、慧海のたどったコースを「間道のまた間道の、またまた間道のまたまた間道」と表現し、「私は全く舌をまく。その剛毅。その不屈の魂。その周到な準備。そしてその正確な観察」と驚嘆しています。

 慧海の真価は、彼の死後に明らかになったのです。

 

      ◇ ◇ ◇

 

 この慧海の苦労を思うにつけ、つくづく私たちは幸せだと思います。真の父母様のご存命中に経典が整理されつつあるからです。100年後、1000年後の人たちが、原典を求めて雪山を越えたり、嵐の海を渡ったりする必要はないのです。

 真のお母様は次のように語られました。

 

 「お父様のみ言が整理整頓されなければ、将来、混沌を来すでしょう。ですから、み言を整理することが急を要することと思い、本格的に、後代の人が見ても批判することのできない原理原則、根も一つ、幹も一つ、実も一つの永久的で、永遠なるみ言として残されなければならないのです」(2012年9月17日、天正宮博物館)

 

 「真のお父様のみ言や、すべての行跡は、原石と同じです。宝石です。私は、その宝石を最高に価値があるものにし、常に間近で愛せるよう、持ち歩きたいのです。……皆さんの手から一瞬も離すことができない宝石にします」(天一国経典『天聖経』12・4・3・20)

 

 お母様、ありがとうございます! 晶

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