「真の父母論」「韓民族選民大叙事詩」の重要性が強調されています。
「真の父母」についてしっかりと理解することの大切さはいうまでもありませんが、では「大叙事詩」の重要性がこれほどまでに強調されるのはなぜでしょうか。
ここでその答えを示す(示せる)わけではありませんが、このブログの記事を通して、「大叙事詩」がもっと身近に感じられるものとなったら幸いです。

まず「叙事詩」の一般的な意味ですが、これは一言でいえば「神話、英雄、歴史的な大事件を、詩の形式で物語として語り継ぐもの」と表現できるでしょう。
個人の内面的な感情を歌う「抒情詩(じょじょうし)」とは対照的に、国家や民族の運命に関わるような、スケールの大きな出来事を客観的に記述するのが特徴です。
大叙事詩を形づくる主な条件として、「民族の起源」「神話から歴史への連続性」「英雄の存在」「価値観の提示」の四つが挙げられますが、『韓民族選民大叙事詩』はそのいずれも満たしているといえます。
復帰摂理の観点から考えれば、「真の父母」がメシヤ・救世主の立場であるように、『韓民族選民大叙事詩』は人類を救済に導く「神と人間の物語」と捉えることができます。
では、物語は人を救えるのでしょうか。
結論をいえば、物語は人を救い得ると筆者は思っています。それは単なる気休めや現実逃避ではありません。物語は、人間の精神構造に深く根差した心の生死を決するほどの力を持っていると考えます。
「物語は、現実という毒に対する解毒剤である」という言葉もあります。それほど、人間の心に影響を与え、心の体力を回復させる力を物語は持っているのです。
ちなみに、筆者の個人的な体験になりますが、神渡良平氏が著した『ゴム草履の宣教師~アフリカに賭けた青春』(光言社、1991年)は、私の信仰へのコミットメントを大いに刺激し、高めてくれた一冊です。同書は、ある祝福家庭をモデルとして書かれたノンフィクション小説ですが、私にとって「救いの一冊」となりました。
筆者は、週刊ぶれら56で「『証し』、それは神の物語と私の物語の交差点」というタイトルでコラムを書かせていただきました。証しは神と人間が交差する物語であるが故に、人の魂を揺さぶり、人間が持つ霊性を高めてくれるものとなる、というのがコラムの趣旨ですが、ぜひご一読いただけましたらうれしく思います。
さて、物語は人類を救えるか、というお話。
天の父母様(神様)と真の父母様、そして人類の3者を主人公とした『韓民族選民大叙事詩』は、万民を救済し得る文学であり、そのような物語としての役目を果たさなければならないものです。
『韓民族選民大叙事詩』は、真の父母様の証しそのものであり、神の物語と選民の物語の交差点なのです。
抒情時を個人の日記のようなものだと考えれば、叙事詩はいわばその民族全体の記憶を著わしたものといえます。
『韓民族選民大叙事詩』は、韓民族(一つの民族)、すなわち人類一家族としての選民祝福家庭全体の記憶とならなければならないものなのです。

(則)




