●ある祝福家庭の神様の愛の物語●
妻が霊界に旅立ってから間もなく27年(1998年12月25日聖和)になります。
今回は、妻との思い出話をさせてください。
私の妻は韓国人の女性です。
1988年10月30日、私たちは6500双の祝福を受けました。
彼女は中学2年の時、学校の先輩から伝道され、統一教会(現・家庭連合)の信仰を持つようになりました。
妻は「(自分が)神様から一番愛されている」という思いが強い人で、真のお父様がソウルでみ言を語られる時には必ず聞きに行っていたそうです。それほど神様と真の父母様を慕う心情が強い人だったのです。
ですから、祝福を受ける動機も「神様の娘(実子)になりたい」という強い願望からでした。彼女は、神様と真の父母様と自分という関係で祝福を捉えていましたから、ある意味では、祝福結婚の相手に対する関心は薄かったのかもしれません。
祝福を受けて3年後、妻は初めて日本を訪れました。
その時、私の所属する教会の兄弟姉妹たちに、6500双のマッチングが行われた時の証しを日本語で話してくれる機会がありました。その頃の妻は、かなり日本語を話せるようになっていました。
実は3年前、合同結婚式の直後、妻は同じ証しの内容を私に韓国語で話してくれていたのですが、その時の私は韓国語がよく分からなかったために、ほとんど理解できていなかったのです。
3年越しになってしまいましたが、私は妻のマッチングの時の証しを聞いて、非常に驚きました。

6500双の祝福式後にみ言を語られる真のお父様
マッチングの時、真のお父様(文鮮明先生)は祝福候補者それぞれに、祝福の相手となる人の写真を渡されながら、時々話しかけられることもあるそうなのですが、妻の時にもお父様は声をかけてくださったのです。
お父様は2枚の写真を手に取りながら、そのうちの1枚を選んで彼女に手渡され、その時、「この男はね、もっと神様に愛されている男なんだよ」と一言語られたというのです。
それまで彼女は、「(自分が)神様に一番愛されている」という思いを強く持っていたので、お父様が語られた「もっと」という比較級を表す言葉に衝撃を受けたそうです。
「お父様のみ言を通して信仰的に開かれたんです」
妻はそのように言いました。お父様のその言葉を通じて、初めて祝福結婚における主体者(夫)の存在を強く意識したといいます。信仰的に主体者に侍るということを強く意識せざるを得ない境地に置かれたというのです。
私の方はというと、その証しを聞いて別の世界が開かれました。
「神は人間を愛していらっしゃる」ということは、統一原理やさまざまなみ言を通して何度も聞いていますし、理論的にはよく分かっていたことです。
ところが、お父様が「この男は神様に愛されている男だ」と言われたということを聞いて、私は無性にうれしくなり、心が躍るのを抑えることができませんでした。
「神様が私を愛している!」
真の父母というかたは、無形なる神様がこんなにも私を愛していらっしゃるのだということを、私の心の奥深くに植え付けてくださるかたなのだという思いが、泉のように湧き上がってきました。
その時私は初めて、神様との親子の絆を結べたという強烈な実感を得たのです。

6500双のメンバーにみ言を語られる真のお父様
このような体験を通じて、私は改めて神様の愛を実感し、真の父母様に対して心情的な意味での“メシヤ”としての存在感を見いだすこととなったのです。
まさに『原理講論』に書かれている、「イエスは神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子として来られたお方である。したがって、堕落した人間が、イエスと完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは堕落人間の仲保となられると同時に、道であり、真理であり、また命でもあるのである。したがって、イエスは命をささげ、愛と犠牲によって、すべてのものを与えるために来られたお方であるから、だれでも彼に信仰をささげる者は滅びることのない永遠の命を得るのである(ヨハネ 3・16)」(53ページ)という世界を、ほんの一部かもしれませんが、心情的に体験できたのです。
そしてこのことは、祝福の相対である妻を通じてなされた神の御業(みわざ)であると確信しました。
統一原理でいわれているとおり、「祝福の相対は第2のメシヤ」なのだと、実感したのです。
以上が私の思い出話です。
聞いてくださってありがとうございます。
(則)




