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心情開拓
心霊を育てる生活原則(142)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

動機の放棄

 それをストップされると、宗教というものは一つのアヘンだとか、讒訴ざんそされるのです。動機が生きていないのです。動機が成長していないのです。今までの信仰の癖とか、習慣とかでただ礼拝するとか、儀式であるとか、み旨とかに参加する。あるいは、自分が初め信仰生活を決意した時のことを、そのままほっておくとか、そういう人が多いのです。特に、献身者にそういう人が多いのです。外的な組織に主管され、内的なものに力を入れていないからです。

 特にだれかというと、教会を担当している者がそうなのです。自分は、もはや神に召されて、神の仕事をやっていると思っているのです。イスラエル民族は、「自分たちは選民だ、自分たちはアブラハムの、神の血統だ、後孫だ」と思ってしまったのです。だから宗教界において、信仰生活において、信仰指導する者たちが一番動機を捨てているといえるのです。

 なぜかというと、結局、その仕事が神の仕事と思ってしまうからです。それが神の仕事ではないのです。自分が神のものとして成長するかが、神の仕事だというのです。自分がどうなっていくのか、というのが神の仕事なのです。自分がどう再創造されていくかが、神の仕事なのです。それなのに、ただ伝えるとか、人のためとか言っても、本当の意味で働けません。

 私たちが、教会の牧師さんに聖書を持っていって、伝道しようとすると、「あなたなんかに聖書を教えてもらうような牧師ではない、自分は専門家だ」と、こう言うのです。しかし、それは間違っているのです。私たちの教会の青年たちが牧師さんを訪問すると、ほとんどの人たちは、気分を害しているのです。聖書のことについて質問すると、気持ち悪く思うのです。そういう人たちは、自分を捨てているのです。ほとんど空っぽだというのです。

 人が何か問題を抱えているとして、自分はその問題に対して、どれほどうまく取り扱っているか、自分はどういうふうに信仰しているか、自分はどのように主体者との関係を結んでいるかを考えないで、その人に対して、年が若いとか、お前は神学校を出ていないとか、そういうふうに見てしまったのです。

 それを見ると、もう伝道に献身した人が、召されたという人が、実際には、内的にほったらかしにしている現実を、私たちは見るのです。

 私たちも天から降りてきた人間ではないので、あなたたちも私も、そういう習慣的な考えをもつ可能性もあるということです。

 私たちも何かをやっている、献身したんだということで、献身した時の動機は、今日どうだということも比較しないで、内的な動機を成長させるということに重点を置かないで、生活とか、やっていることに気をとられ、自分をほっておくことが多いのです。

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 次回は、「惰性的な人間関係」をお届けします。


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