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心情開拓
心霊を育てる生活原則(141)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

動機の成長

 蘇生期には、自分を中心として主体者を信じるのです。これは、蘇生期においては幼いからやむを得ないのですが、しかし、長成期には自分を否定し始めるのです。蕩減(とうげん)とは何かというと、自分を否定して、主体者の事情を相続しようというのがそれなのです。徐々に自分を否定するのです。急にはできないのです。徐々に、徐々に否定しながら、なるほど、なるほどと実感しながら、受肉しながら、主体者の事情、主体者のみ言(ことば)に、主体者を絶対視しながら、自分なりに服従し、主管されながら、なるほどなるほどと、全然知らなかった主体者の内容を受肉していくというのが、復活です。成長なのです。それは儀式によって、あるいはみ言によって、徐々に、徐々に自分が成長していくのです。

 動機という問題ですが、初めは、自分にふさわしいとか、自分が納得したからとか、今までの自分に理解したからとか、合理的であるからとか、こういうことが、蘇生期の復活の動機になるのです。

 今までの自分を急に否定できないから、だからイエス様は、そのままを愛し始めました。神様は私たちをそのまま、罪人と見ない、神のものと見るのです。不信者と見ない、今までの堕落した人間と見ない、神のものと見るのです。

 ルカ福音書第15章に、親が放蕩息子が帰ってきたのを、放蕩息子と見ないで、家から離れる前より以上に価値視しながら迎えるという、お話があります。だから、罪を考えない、しくじったことの何も記憶しないというのが、親だというのです。

 初めにおいて、私たちのそのままのものを、自分のものとしてしまうのが神の愛です。そして、受け入れられたほうは自分にとっていいから、喜んで行くというか、服従しようとするのです。これが、信仰者だれしもの、初めの動機です。

 しかし、徐々に接しながら考えてみると、自分を否定すべきであるということを悟っていくのです。だから、信仰路程は、いつまでも、自分の否定なのです。否定したと思ってはいけないのです。「自分はもはや救われた」と思っては大間違いだというのです。もう、神のものに所有されたと、そのつもりになってしまうと大変です。それで失敗してしまうのです。それで、「イスラエル民族は選民だ」、そういう観念とか、「私たちはだれだ」とか、そのように思ってしまったのが大間違いなのです。だから徐々に自分を否定しながら、動機を主体者の立場に引っ張っていくと、動機が主体と対象の間に、このように距離があったけれども、徐々に動機が主体者の側に引っ張られていくのです。情的な世界において、その距離が縮められていき、最後に、心情において一体化する、所有されるという、その到着地まで行く、それが私たちの闘いなのです。

 その動機がどうなっていくのか、それを知らなければなりません。私たちは、その出発の動機と、今私がもっている動機を、蘇生期の動機なのか、長成期の動機なのか知らなければなりません。私たちは動機に支配されているのです。ペテロのように、動機がみ旨に近寄らないで、そのままほっておくと問題なのです。

 ペテロは、その動機が変えられていなかったのです。ペテロは結局、結果的にイエス様と別れたのですが、それを見ると、根本的に動機が問題だったのです。イエス様がペテロに、「あなたは、私をどう思っているのか、だれと思っているのか」と聞いたのも、結局、動機を転換させたかったのです。カペナウムで出会って、出発したけれども、今まで一緒に生活してみた現在、その動機をイエス様はペテロに聞いたのです。「どう思っているのか」と。

 ペテロは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたのですが、動機が変わっていないから、最後には、「私は知らない」と言ってしまったのです。影響を受けて、「あなたは、神の子です」と本心で話したけれども、実際は、動機が変わっていないので、知らないことを言っているのです。ペテロ自身が、知らないことを言っているのです。動機が、カペナウムから出発したその時から今まで、イエス様に近寄っていないということです。

 それを縮めていかないと、信仰というのは疲れるのです。疲れるとか、苦しいとか、どうもこのごろ刺激がないというのは、動機が転換する時が来たのです。成長したからです。今までの動機では続けられない時が来たという意味なのです。だから、動機が新たに成長するというか、主体者に近寄らなければなりません。

 信仰の道において、その内容が、出発時はいろいろですが、徐々に、私よりもアベルを中心として暮らしていきながら、その動機を成長させていくのです。

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 次回は、「動機の放棄」をお届けします。


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