https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4114

信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(105)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
六、完全な救い

▲金元弼先生

神が人間に与えた愛の型

 これから私たちがしなければならないのは、メシヤのみ言をいかに実体化するかということです。み言の中心は神の愛であり、神の愛は、私のためにではなく、皆様のためにということなのです。

 真の愛は、神のために捧げる愛です。神は人間のために、主体は対象のために、対象は主体のために働くのです。神があれば、神の実体対象の世界があります。それは、人類を中心とした世界になります。神の愛は小さくは私個人のため、私の家庭のため、私の氏族のため、私の民族のため、国家、世界、天宙のためにということになるのです。そして、神のためにあるのです。

 愛というのは、「ためになる」ということです。自分のためではなく、神が愛する個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙のためになるということです。受けることではなく、与えることです。

 神が人間に与えた愛の型は、自分のためにではなく、対象のために与えるということです。ですから、神を愛するということは、神のために自分の愛を与えることです。天宙の中心である神に、天宙的な愛を与えなければなりません。個人的には個人の愛を、家庭的には家庭の愛を、民族的には民族の愛を与えなければならないにもかかわらず、堕落した人間は神に愛を与えないで、自分のために神の愛を受けようとしたのです。

 愛の中でも最高の愛は、人間の世界から見れば天宙の愛、天宙の根本である神に対する愛が、最高の愛です。私が兄弟を愛するということは、兄弟のためになるということです。神が愛する人を愛するということです。国家を愛するということは、神が愛する国を愛するということです。

 メシヤと一致した私になるためには、メシヤに愛される私にならなければなりません。愛される私になるためには、愛さなければなりません。ところが、メシヤと私たちは、一緒の生活圏内にはいないのです。メシヤは基準を立てていて、メシヤのみ言の基準は私たちと一緒にあるけれども、実体は一緒にありません。ゆえに、メシヤが愛する人を愛するということが、すなわちメシヤを愛するということになるのです。

 私が完成したかということを、どのようにしたら確認できますか。自分は神が愛する人のために、国のために、世界のためにいかに心を尽くしたかということによって、自分自身の基準が分かります。完成には段階があり、個人の完成は、完成とは見ないのです。個人は完成していても、家庭は完成していないのです。それ自体として完全であっても、一つの目的を中心として見れば、部分的な完成であって、全部完全なものとして組み立てられた時、初めて完成したと言えるのです。

 私たち個人というものは、天宙の一つの基本単位です。これが合わさって、完成という創造の理想の完成が現れてくるのです。

---

 次回は、「天宙的な自分を形成したか」をお届けします。


◆『信仰の伝統』を書籍でご覧になりたいかたはコチラ