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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(104)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
六、完全な救い

▲金元弼先生

完成の基準

 私たちは、心と体が一致していません。いつもみ言に触れながら、心は願うけれども、体はなかなかついてこないのです。皆さんもよく御存じのとおり、完全という基準は、神を中心として私がいかに一致するかということです。見えない神と私が、いかに一致するかということが問題なのです。

 神は、この世の中に完全な人としての基準を立ててくださいました。その方がメシヤです。私がいかに神と一致した完全な人間になろうとしても、完全な基準がなければできません。その基準が与えられたことは、本当に幸せであると思います。

 我々は、メシヤのみ意(こころ)となかなか一致できません。完全な基準として立たれたメシヤと、堕落している人間とは、どのような違いがあるのでしょうか。

 神と一致した人間は、神を主体として、対象の立場に立って一つになる、すなわち第二の主体となるのです。堕落していない人間が、神を中心として一つになったならば、その人は第二の神になるのです。人間は自分の中に神が宿ることを願い、神は人間の中に宿ろうとされたのです。ところが人間はその位置から離れて、人を中心として神を一致させようとしました。これが堕落です。

 堕落性の一番本質的なものは、人を中心として神を考えたことです。メシヤは神を中心とした完成人間です。神を中心とするということは、神の愛を中心とするということです。完成の基準がこの世に立てられたことによって、初めて堕落人間が完成できるきっかけができたのです。

 完成することを考えられない、堕落したこの世の中にあって、完成できる出発点を私たちは発見したのです。完成の基準に向かって出発した私たちの立場であることを忘れてはならないのです。

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 次回は、「神が人間に与えた愛の型」をお届けします。


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