信仰と「哲学」75
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(9)

侍義信仰の懸け橋に

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 文鮮明師は、神に「侍る」生活の重要性を強調されました。
 行儀の時代から信義の時代、そして「侍義」の時代へと神の救いの摂理は展開されてきたと言われます。そして今は「侍義」時代であるとし、次のように語っておられます。

 「これから、皆さんは、侍る生活をしなければなりません。今までは信じることによって救いを得る信仰生活をしましたが、これからは侍ることによって救いを得る時代です。本来、人間が堕落しなかったならば、神様に侍る道を行くのです。侍るときは、皆さんの生活と心で侍らなければなりません。皆さんがどこかに行くとき、必ず前には真のお父様が、後ろには真のお母様がいることを感じなければならず、左右と上下には必ず天が共にあることを感じなければなりません」(『天聖経』第十一篇礼式と名節、第一章侍る礼法、第一節侍る生活より)

 哲学は信仰のためにあるとの認識に立てば、侍義の意味を哲学的に理解することは非常に重要になります。そこでまず「侍る」ということはどういうことなのかをしっかりとつかんでおかなければなりません。

▲天一国経典『天聖経』

 「侍る」の意味を調べると「身分の高い人のそばに付き従っている」(小学館「デジタル大辞泉」)とあります。
 そこから神に侍るとは、神のそばに付き従うこと、という意味になるのでしょう。

 「身分の高い人」のそばに付き従おうとすれば、その高貴な人物が生活している場に赴かなければなりません。そのためには、一定の空間的距離を移動し、さらに生活の場を共有することの許可が必要になります。

 それでは、侍るべき神はいつ、どこにいらっしゃるのでしょうか。それが問題です。
 その問題の解は『原理講論』に記されている以下の文言にあります。

 「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である」(47ページ)

 私は、神を中心とした「一つの完全な有機体」の内に在るのです。神と私は、心と体のように、時も場も共有して生きているのです。同じ命(有機体)を生きているのです。すなわち、空間的距離も時間の一致についても心配する必要はありません。今、ここに、共に生きているのですから。

 さらにみ言は続きます。
 「神様は、盲目的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではないのです。生活の中で主体性をもち、私たちが暮らしている生活の主人として、常に共にいるのです。侍られているだけではありません。愛を共有しながら共同生活をしている神様です」(『天聖経』第十一篇礼式と名節、第一章侍る礼法、第一節侍る生活「侍る生活の心構え」より)

 「神様を心の中にお迎えし、体の立場で人間が完全に一つになる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道がありません。それで、侍義の救援時代だと見るのです。侍ることによって救いを受けるのです。神様は、あの空の遠く彼方にいらっしゃる方ではありません。私たちの生活圏内の主体者として、神様に侍らなければなりません。侍るには、どのようにしなければなりませんか。蕩減原則に従って、歴史時代に神様が悲しみ、苦痛を受けたすべての事情を解いてさしあげなければなりません」(同)

 私たちは神と常に共にあるということ、同じ命を生きているということ。神はどこにいらっしゃるのかと探し、いつ会えるのかと心配する必要は本来なかったのだということを理性的に納得し確信を持つことから侍る生活は出発すると思うのです。

 スピノザの神観(第68回参照)は侍義生活への懸け橋となると言えるでしょう。