信仰と「哲学」76
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(10)

スピノザの限界は哲学の限界

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 幸福とは「一体感」と言えます。
 私と特定の対象との一体感もそうですが、私を含む「世界」(神と被造世界)との一体感もそうです。
 私は何であり、今、どこにいるのかを感じる一体感。それが私の「安心立命」、すなわち、心が安らかで何事にも動じないことにつながります。

 スピノザはこれを「至福」の境地と表現しました。
 この「至福」の境地に至るためには、理性とそれを超える直観(西田幾多郎の純粋経験)が必要となります。
 スピノザは理性を極限にまで高めつつ、それを超える直観による世界の把握、すなわち神につながる道を提示したのです。

 「人はこの種の認識(直観による認識)が可能になればなるほど、自分自身と神をより強く意識できるようになる。それはつまり、より完全でより幸せになれるということである」(『エチカ』第五部定理31の備考より)と述べています。
 しかし、スピノザはここまででした。ここが「哲学」の限界だったのです。

▲若き日の文鮮明師

 イエスはこの限界を超えてさらに神と一つになった人であり。それ故にイエスは神を「私の父」と呼ぶことができたのです。
 文鮮明師もまた同様でした。文師の自叙伝(文庫版『平和を愛する世界人として』光言社)に次のような神との「出会い」について記されている箇所があるのです。

 「悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。
 『神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ』という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。
 人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機を回しているように、私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、なかなか起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした」(95ページ)

 直観(純粋経験)は知能(理性)と心霊をつなぐものといえるでしょう。
 理性を駆使する真理探究の成果が直観によって心霊を啓発し、神霊と共鳴・共振するのです。その結果「神様と私たちは父と子の関係である」との悟りを得ることになり、「神様の膝に顔を伏せて涙を流した」という、愛と心情の次元へと進んだのです。

 哲学の限界を超えた宗教・信仰の次元です。
 ただ共にあるという侍る生活ではなく、神様の願い、事情、心情を共にする真に侍る生活へと入っていくのです。

 スピノザの限界は哲学の限界でした。神様(天の父母様)に侍る生活へと導く助けにはなりますが、侍るということは、ただ共にいるだけではなく、神の願い、事情、心情と共にあって初めて「侍る生活をしている」と言えるのです。