信仰と「哲学」68
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(2)

観念から実感へ
共に生きる神を知る

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神が無限であることの理解から導かれるものは非常に多くあります。
 その内容を説明する前に、『原理講論』の総序に記されている「新しい真理の使命」に関する内容を挙げてみます。

 まず、人間が罪を犯せなくなるように導くという使命です。
 当然私自身の課題と重なりますが、以下のように記されています。

 「人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間を超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない」(33~34ページ)

 「今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか」(34ページ)

 これらの文言に触れるたびに、信仰生活が「観念的であり、実感を伴うものではなかった」ことを反省せざるを得ないのです。

 さて、無限であるということは限界がないということです。神が「世界(天宙)」の外、すなわち世界に対して外在する存在であれば、すでに無限であるとは言えなくなります。
 なぜなら、外と内の間にはそれを分ける「距離」としての限界があると言わなければならないからです。すなわち、心は体の外にあるのではなく内にあるのと同じです。

 『原理講論』には次のようにあります。

 「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである」(47ページ)

 神は世界に対して外在するのではなく、内在する。そして熟慮の末に、神は「今ここに生きておられる」との結論に導かれます。
 このことが、「時間と空間を超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神」への信仰につながると思うのです。