信仰と「哲学」69
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(3)

有神・無神論の対立、唯心・唯物論の対立を超える
「自然即神」

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 『原理講論』の総序に、新しい真理の使命として以下の内容が強調されています。

 「有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである」(23ページ)

 「唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない」(32ページ)

 スピノザの哲学には上記の課題を解決する視点が含まれています。それはスピノザが提示する神観にあります。スピノザは自らの哲学について、ライプニッツに「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から始め、私は神から始める」(『エチカ』岩波文庫)と語りました。

▲スピノザ(Wikipediaより)

 主著である『エチカ』は「第一部 神について」から始まります。そして、神は「無限」なる「実体」であるとの立場から被造物を論じ、人間の自由や喜びについて、すなわち、いかに善く生きるかを体系的に述べていくのです。

 私たちは、神を第一原因として説明することがあります。
 スピノザは第一原因を「自己原因」と言い換えます。第一原因であるということは自己が全ての原因となっているということですから、当然であり同じ意味です。

 そして神について、「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する」(同)と定義するのです。

 旧約聖書の出エジプト記第3章14節に<神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」>と記されている内容を表現したものです。

 第一原因=自己原因としての神は、「有って有る者」としての神、すなわち、全ての存在を存在あらしめている存在であるというわけです。神のみが「実体」であるというのです。

 スピノザの「実体」とは、デカルトの定義を受け継ぎ、それ自身によって存在し、その存在のために他のなにものも必要としないものを言います。

 人間や森羅万象は無数の関係性の中にあって存在しています。それ自身によって存在してはいません。第一原因であり「自己原因」である神以外に「実体」は存在しないということになるのです。

 そして、神は唯一、絶対、永遠、無限なる実体であり、全て存在するものは神の内に在るという命題に結び付くのです。

 神は被造世界に対して外在するのではなく、内在されている。ここから「自然即神」(『エチカ』第四部 定理四の証明)とのスピノザの表現が生まれることになったのです。

 この表現、「汎神論」的表現は衝撃でした。
 スピノザの思想は、時代を超えての宗教、哲学界の転換点となり、結果として後に、多くの影響を人々に与えることとなりました。

 スピノザ自身は命の危険にさらされ続け、生前に彼の哲学が評価されることはありませんでしたが、後にゲーテ、ヘーゲル、ニーチェ、ベルクソン、アインシュタイン、フォイエルバッハ、マルクス…などが、それぞれの立場で評価し、「継承」して自らの思想を展開していったのです。
 有神、無神、唯心、唯物論者たちの名前が挙がっていますが、それだけスピノザの哲学は根源的な力があったと言えるでしょう。