信仰と「哲学」35
本体論入門~存在からその関係性へ

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 仏教は釈尊の「さとり」から始まりました。

 すでに、第10回の「さとりの哲学的理解」で、その本質が「直感」(西田幾多郎の言う「純粋経験」)であることについても触れました。

 そこで、著名な仏教学者であった増谷文雄氏が著した『釈尊のさとり』(講談社教養文庫)を紹介しました。
 増谷氏がこの書を通じて述べたかったことは、「釈尊のさとりの消息」であると述べています。そして、「さとり」の哲学的理解として西田の「純粋経験」という概念が適切であるとして紹介してきました。

▲サールナート考古博物館のブッダ像(ウィキペディアより)

 釈尊の生涯と思想において眼目をなす、菩提樹下における大覚成就(だいかくじょうじゅ)、すなわち「さとり」について増谷氏は、仏教学者として世界的に知られた鈴木大拙(1870年~1966年)の米国での講演内容を紹介しています。

 その公演は、ニューヨークのプリンストン大学で行われた(1980年頃)ものですが、その中で釈尊が「さとり」を開いた瞬間を次のように語ったというのです。

 「諸君よ、その時、私は、菩提樹のもとに座しておられた釈尊の頭の中を、その真上から眺めてみたことがあるのです」
 「そうすると、釈尊の頭のなかには、ただ一つ大きなクェスチョン・マークの疑問符が見えていた」

 鈴木大拙は西田幾多郎と親交がありました。
 大きなクェスチョン・マーク、すなわち「なんだろう。これは」という西田の純粋経験の概念と重なっている気がします。独立自存の真実在が人間に顕現する時はいつも純粋経験を通してなのです。

 増谷氏は釈尊のさとりについて、次のように述べています。

 (鈴木大拙氏の講演は)「釈尊の『さとり』の消息をみごとに表現している。そもそも、釈尊がかの樹下においてあたえられた直感なるものは、ずばりもうしますなれば、すべての存在は関係性のなかにあるということでありました」

 私が、増谷氏の『釈尊のさとり』を手に取ったのは30年以上前のことです。
 読み進める中で「すべての存在は関係性のなかにある」という一文に触れた時、時間が止まった気がしました。「なんだろう。これは」との経験。純粋経験に震えた瞬間だったのです。

 全てのものは関係性の中にあるということは、存在するもの全てが一つの有機体を構成しているということです。
 有機体とは生きているということ、すなわち生命体ということです。存在するものの関係性が切れる時、それは生命体ではなくなります。
 仏教が宇宙の本体を「生命」と見るのは、ここから来ているのかな、と考えました。

 次回の配信は、11月25日(月)を予定しています。お楽しみに。