信仰と「哲学」34
本体論入門~私と共にある神。いつも、どんな時でも

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神は無限であり、絶対、唯一、永遠なる存在です。

 無限であるということは限界がないということ。無限であるということは、「ここまでは神だけれども、ここから先は神ではない」と線が引けないということ。言い換えれば、神は、神にとっての外部がないということです。
 もし、神に外部があるとすれば、神は有限になるから―。繰り返しになりますが、神は無限であるということは、全ては神の中にある、ということになります。
 これがスピノザ哲学の根本でした。

 上述の「神の中にある」との表現を「神と共にある」と置き換えることができます。
 信仰者にとって、つまり私たちにとっての切実な望みは「いつも神と共にあること」です。時に私たちは、「私の罪の故に神は私からは遠く、遠くに行ってしまった。悲しい。どうしたらいいのだろう。どうしたら神と共に生きることができるのだろう」ともだえるように求めます。しかし、スピノザの考えに立てば、いつ、いかなる時も神は私と共にいる、ということになります。

 私の長男が信仰、結婚問題で数年間、苦しんだことがありました。
 ある修練会で、独り祈りを深める時間を持つことができ、「神の願いを知りたい」「神と共にあって行く道に確信を持ちたい」と願って、他の思いを整理して神にのみ心を向けることができるようになったのです。
 そして「神様、あなたはどこに」との純なる心の叫び、祈りに気持ちが集中した時、心の奥底から「私はここにいる」との「声」が響いてきたというのです。
 私にはまだ、この純粋経験はありません。神はいつも、どんな時でも私と共にいるのです。ただ、感得できないだけなのです。

 既に紹介しましたが、文鮮明師のみ言がまとめられている『天聖経』の「真の神様」から引用します。

 「人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます」

 『原理講論』には、このようにあります。

 「神を中心として創造された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに動じ静ずる、一つの完全な有機体である。この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである」(p.47

 いつでも、どんな時でも神は私と共におられるのです。それが本体としての神なのです。