信仰と「哲学」33
本体論入門~「神は無限である」の意味

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神は無限なる存在であるということについて、考えてみることにします。

 文鮮明師が神について、「神様は、いかなる形態ももっていらっしゃいません。大きいといえば、無限大です。小さいといえば、無限に小さい方です」(1970年10月13日)と語っていることは、すでに述べました。(第31回を参照)

 スピノザの哲学の出発点にあるものも「神は無限であると」という考え方です。
 私たちは「○○が無限である」といわれても、そこにどのような意味が込められているのかを、さらに深く考えようとはしないのではないでしょうか。ところがこの言葉にこそ、神はいかなるおかたであるかを知る糸口があるというのです。

 スピノザはこう考えました。
 無限であるということは限界がないということ。神が無限であれば、「ここまでは神だけれども、ここから先は神ではない」と線が引けないということ。言い換えれば、神は、神にとっての外部がないということです。もし、神に外部があるとすれば、神は有限になるからです。

 結論として、全ては神の中にある、ということになるのです。これがスピノザ哲学の根本です。

 スピノザの主著は『エチカ』です。「エチカ」は倫理学の意味ですが、元々はギリシャ語の「エートス」から来ています。
 この言葉には、慣れ親しんだ場所や動物の巣や住居の意味が込められています。スピノザは、私たちが慣れ親しんだ今いる場所で、どのように生きていくべきかという問いを持ちながら、記された言葉を吟味してほしいと願ったのです。

 「神即自然(かみすなわちしぜん)」がスピノザ哲学の根本概念です。
 「自然」という言葉は、人間と自然、のように分けられたそれではなく、森羅万象全体を表しています。被造世界=天宙の意味です。

 このことから、スピノザの哲学は「汎神論」といわれることがあります。しかしスピノザ自身がこのように述べたことはありません。でも、「八百万の神」のような多神教的な自然崇拝のイメージとは違います。神は唯一なのです。

 とにかく、私たちも「無限である」ことの意味をじっくり考えてみることにしましょう。