信仰と「哲学」31
本体論入門~神についての考え方

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神を「知る」ことについて、純粋経験の立場から考えてきました。

 次に、すでに少し触れた内容ですが、本体、真実在、実体としての神はいかなる存在なのかを、文鮮明師のみ言(教え)、西田幾多郎氏(18701945)および17世紀オランダの哲学者・スピノザ(16321677)の思想を導きの糸としてより深く考えてみたいと思います。

 西田は、『善の研究』の「第十章 実在としての神」において、次のように述べています。

 「いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語を持たない者はいない。しかし知識の程度および要求の差異に由って種々の意義に解されて居る。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちてしかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如きものと考えて居る。しかし、此(かく)のごとき神の考は甚だ幼稚であって、啻(ただ)に今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においてもこの如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える」(『善の研究』岩波文庫 128頁)

 また、当時の極端な科学者のように、物体が唯一の実在であって物理的な力が宇宙の根本であるという考えも否定しています。

 西田が強調していることを確認しておきます。
 それは「神は宇宙の外に立ちてしかもこの宇宙を支配する偉大なる人間の如きものとの考え」の否定です。
 「神を外界の事実の上に求めたならば、神はとうてい仮定の神たるを免(まぬが)れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とは言われない」(同 132頁)というのです。

 宗教家の多くが、そのように考えていると指摘されていますが、私たちにとっての神の考えも、同じようなものになっていないでしょうか。このような考えでは神を真に捉えることはできないというのです。それは「絶対無限なる神とは言われない」からと断言しているのです。

 文鮮明師は神について次のように語っています。

 「神様は、いかなる形態ももっていらっしゃいません。大きいといえば、無限大です。小さいといえば、無限に小さい方です」(1970年10月13日)

 それでは「絶対無限なる神」(西田)という言葉を満たす考え方とは、どのようなものなのでしょうか。