信仰と「哲学」30
善について~純粋経験を大切に

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神を知る純粋経験の条件、それは「無になること」です。
 「自分さえ良ければ」「自分が自分が」の意識が消滅した時、統一的な表象と私とが共鳴、共振現象を起こすのです。統一的表象とは四位基台のかたちです。

 真実在である神によって創造され四位基台のかたち(統一的表象)を備えた被造物との関わりで生ずる精神現象は、全て純粋経験であり、神の臨在を直覚し得るものであるはずです。

 人間が無になるということは至難の業です。現実生活の中ではほぼ不可能と言ってもいいのかもしれません。その意味で、直感や直覚で森羅万象の本質、本体をつかみ得た人は、程度の差はあっても極々わずかであったと言わなければなりません。釈尊、イエス・キリスト、そして文鮮明師です。

 時に余命宣告をされた極少数の人が、今まで何も感ずることなく見過ごしていた風景、山川草木、一輪の花の美しさに感動し、涙する体験を聞くことがあります。

 最近死去された政治家から生前こんな話を聞きました。
 その人はがんに侵されていました。文鮮明師の自叙伝を幾度も読み、心に残る言葉に何度も何度もアンダーラインを引くほど、本当のことを求める人でした。
 その人は、亡くなる1、2カ月前に、「自分は真理と愛に包まれている」ことを実感したと語られたのです。無の境地に立たれたのだろうと思います。

 本来人間は、他のために生きる真の愛によって自我を超えることを普通にできたのでしょう。

 文鮮明師は次のように語っておられます。
 「人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です」(『天聖経』~「真の神様」より)

 人間は本来、純粋経験、すなわち直感で四位基台とその本体である神を普通に感じながら生活する存在だったのです。

 今私たちができることの一つは、「何だろう、これは」という統一的表象、すなわち純粋経験を大切にすること、神に触れたという思いを忘れないようにすることであると思います。