信仰と「哲学」29
善について~悲しくないのに涙が

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「阿弥陀仏堂だより」(小泉堯史〈たかし〉監督)という映画があります。2002年に公開されました。
 キャッチコピーは「忘れていた、人生の宝物に出会いました」です。

 主人公の上田(寺尾聰)は作家です。映画は、その妻(樋口可南子)を連れて東京から帰郷(長野県)したところから始まっています。
 帰郷の理由は、医師である妻の心の病の癒やしも考えて、田舎の診療所に職場を代えるためでした。
 村の「阿弥陀堂」を守るおばあさんとの心の交流を描く映画です。

 自然の中で妻の心が次第に癒やされていく様子も描かれているのですが、前半部分で、主人公とその妻が数人の子供たちと遊び、夕方になって子供たちが歌を歌いながらそれぞれの家に帰っていく場面があります。
 子供たちの姿を包み込むように夕焼け空が広がっています。その時妻が、ほほ笑みながら流れる涙を拭い、「嫌ね、悲しくもないのに」と言いながら夫に寄り添うのです。

 私の体験ですが、ある時に街で親子に出会いました。二人並んで歩いてたのですが、やがて手をつなぎ、その子は母親に「だっこ」を要求。だっこされたその子は母親の胸に頭を添え、身を委ねて目を閉じて眠り始めました。私はほほ笑みながら悲しくもない涙が流れてきました。

 時代は鎌倉時代までさかのぼりますが、僧侶で歌人でもある西行(11181190年)の有名な歌があります。
 伊勢神宮参拝の時に詠んだとされています。

 「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

 この歌に含まれている思いは、目には見えないけれど、誰かや何かがいつもそばで見守ってくれている。そう感じられるだけで、涙がこぼれるほどありがたい、というものでしょう。

 悲しくないのに涙が溢れるのです。「なんだろう、これは」との内なる声とともに。

 このような体験はきっと、誰もが思い出してみればきっと確認できるはずです。
 「色を見、音を聞く瞬間、これが外部の作用であるのか、私がこれを感じているのかというような考えのない、この色、この物が何であるかという判断が加わる前の経験なのです。このような直感や直覚、ひらめき、さとりの状態が純粋経験といえるでしょう」(「信仰と『哲学』」第27回)