信仰と「哲学」28
善について~純粋経験と四位基台

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 『原理講論』は、神の遍在性を強調しています。
 「創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形状の実体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に遍在されるようになるのである」(『原理講論』62ページ)

 遍在性とは「広くあちこちにゆきわたって存在するという性質」(『デジタル大辞泉』小学館)をいいます。神が運行できる根本的基台、すなわち四位基台が造成されているところ、神は遍在されるというのです。

 本来人間は、神と共に生活するようになっているのです。「何だろう、これは」という直感、直覚に満たされ神と共に生きる、神を常に感じながら生活するようになっていたということです。

 『原理講論』に次のように記されています。
 「今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか」(『原理講論』総序、34ページ)

 「神が存在することを実感でとらえる」とはどういうことでしょうか。それは純粋経験としての直感、直覚、感動、悟りなどで満たされているということと考えるのです。
 純粋経験は主客未分の経験です。「自分が…」という意識を超えた「無」、主客一体となった意識において経験できるものなのです。「私が」という自我、自己意識が純粋経験を阻(はば)むのです。

 「何だろう、これは」という思いとともに涙が流れる。「何だろう、これは」という思いとともに厳粛な思いに満たされる。「何だろう、これは」という思いとともに喜びが溢れてくる。
 この時人間は「真実在」「本当のもの」「神」に出会っているといえるのです。そしてそこに「かたち」としての「四位基台」があるのです。