信仰と「哲学」10
神との出会い~「さとり」の哲学的理解

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 宗教に対する壁はなくなりました。そして統一原理の言葉を「確かにそうだ」、と心に刻みながら日々を送っていくことになりました。が、信仰の道を歩みながら、心の奥底で「柿の木の下の出来事」を説明できる言葉を探し続けたのです。

 その出来事とは「初めは何が起きているのか全く分からない、驚きとともに襲ってきた悲しみでしたが、次は自分の理性で納得した神の悲しみでした。そしてさらに泣いた」という事実です。それを「聖霊体験」とまとめることもできるのですが、哲学的理解ではないのです。

 今から30年以上前、1986年だったと思います。衝撃的な言葉に出会いました。『釈尊の悟り』(増谷文雄著「講談社教養文庫」)の中に記されている文章です。

 「自己をはこびて万法(まんぼう)を修証(しゅしょう)するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」。

 『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の第三巻、「現成公案(げんじょうこうあん)」の中で、道元禅師が説かれている内容です。

 その意味は、自己の思考、考えをもって真の実在や実相を模索するのは迷いであり、驚きから触発させられる直感(直接経験、「純粋経験」)こそが、真実在に触れる(出会う)悟りだというのです。

 それまでの自分は、徹頭徹尾、前者でした。ギリシャ哲学から近代哲学に至るまでの真実在、真理探求の方法です。理性の力を信じ、人間が主体として対象・客体を正しく認識しようとするものです。

 しかし道元禅師は、その方法は「迷い」しかもたらさないと言います。真実在、万法が自らに進んできて触れることによる直感、純粋経験(西田幾多郎)によって、すなわち悟りによってのみ自分を知り、確立することができるというのです。

 この万法と自己との関係の在り方は、「共鳴、共振」と表現するのが一番的確だと思います。文鮮明師のみ言葉によって確信するようになりました。

 『釈尊のさとり』を記した増谷文雄氏は、念仏門(浄土教)の寺の長男として生まれています。仏教研究、特に釈尊という人間のみを見つめ、その本当の姿を知って伝えるための生涯を送られました。都留文科大学学長などを経て、1987年に亡くなっています。(続く)