2025.05.30 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(210)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
24 真を求めよ
(1994年10月23日 札幌教会)
涙で連結
日本の家庭はとても悲しむべき家庭です。あまりにも長い間葛藤(かっとう)し、ぶつかって冷たくなった家庭です。ですから、お互いに、どれほど涙で交流できるかが問題です。子供が心配をかけた時に、そのことに泣く親なら、その子供の身勝手は清算できます。子供の身勝手に対して泣くことのできるお母さんであれば、子供の身勝手が解けていきます。
夫婦も身勝手さをもったままの夫婦です。夫婦もお互いに泣きながら身勝手さを清算しなくてはならないのです。笑いながらの夫婦ではないのです。それでは、まず肉心が心に支配されたがりません。これも悲しい問題です。夫婦の関係が、同じ方向と事情をもっていながら、お互いに心情がつながらない理由は、一言でいうと、泣かなかったからです。相手の問題を自分の問題として泣かなかったからです。悲しめば、真は始まります。悲しめば、真は成長していくのです。
皆さん、この話を記憶して、自分は生活の中でどういう心情を発露する自分であるかを考えて、自分を知りなさい。私たちは、何かお互いに会わなくて問題を抱えているのです。カイン・アベルが一体化できないし、アベルに侍ることができないし、カインに対して愛着心がないし、夫婦がなかなか真と連結できない、というように。
夫婦になったけれども、心情がお互いに授受しにくい夫婦は、結局お互いの「我」、自分を否定する悲しみが互いに違うから連結できないのです。接ぎ木というのは、両方の木を切ります。両方から液が出ないといけないのです。液と液が接触して、生命化するのが接ぎ木です。ですから、人間の心情もそうです。み言(ことば)で泣き、堕落性のために泣く、カインのために泣く、アベルのために泣く、泣きながら連結するようになっているのです。これは間違いありません。涙で連結できるのです。
神様は、悲しみに満ちて復帰摂理をしてこられた方だということは間違いありません。イエス様の一生は悲しみに満ちていたということも間違いないのです。皆さんの生活感情はどうですか。皆さんの生活感情は、どれほど主体者の立場で心情を授けながら暮らしていますか。このことに対して、各々が責任をもつべきです。
自分の情の授け方、情の投入の仕方、それをほっておけば、自分はいつまでも観念的な人です。観念的食口(シック)です。み言を悟ったから食口になって、そのままだと冷たいのです。み言のまま信仰をもった人は冷たいのです。涙が始まらないといけません。自分と闘って、涙を求めるのです。自分と闘いなさい。歴史的に神様を悲しませ、親を悲しませた自分なのです。
今は、親と全く関係をもたずに暮らしている日本の青年たちが、多くいます。お母さんが捨てて育てたからです。保育園で育てました。ですから、子供たちはみな、親と関係をもとうとせずに、家から出ようとしています。高校を卒業する前、もう15、16歳になれば、親に干渉されたくないのです。なぜかというと、親が子を捨てて暮らしているからです。自分の子であるけれども、捨てて暮らしています。
それでは、何を重んじているかというと、仕事を重んじています。仕事のために、自分の家族は別れて暮らす。それだから、愛はない、恋しさもないのです。連結していないのです。子供を生んで育てるお母さんは、涙で育てるのです。涙で育てると、一生その子は親の因縁に引かれて離れられないのが、親との関係なのです。ほったらかして育てたから、みな家を出たがるのです。
こういう後孫だから、「氏族復帰せよ」というみ言を聞いた時に、自分には氏族がないというのです。親がいても、全然恋しくない。兄弟にも、少しも会いたくもない。札幌に自分の兄弟が住みながらも、一年に一遍も会わない。こういう人に会った時、驚きます。どういうふうに育てて、あのように兄弟がお互いに会いたがらなくなったのかと思います。
家庭夫人たちと数多く接してみると、家庭がとても悲しいのに、涙がないのが分かります。夫が毎日酒を飲んで帰るのに、奥さんに涙がないのです。自分に責任があると思わないのです。神様に侍る心をもたないといけません。侍る心から心情も発動するし、侍る心から涙も出るようになるのですが、み言を聞いただけで、侍る心情がありません。み言の理性的な思考が、心情と連結していないのです。
私が心配するのは、教会に通いながら恋しい人がいないということです。三位基台で親しくなって、いつも教会に行けば、自分の三位基台のそばに座りたいし、会いたいという、そういう心がない人は、観念的食口です。
祝福を受けても観念的家庭です。そのような家庭をお父様は、天使長家庭とおっしゃったのです。そのような家庭が、真の愛の家庭になれるかというのです。真の愛とは、お互いに相手の問題を自分の悲しみとすることです。お互いにそうなれば、真の夫婦になる可能性があります。連結ができます。心情と心情が接ぎ木できます。涙で接ぎ木するのが、絶対に得なのです。涙なしにはつながらない、ということです。だから既成祝福家庭は、お互いに今までの習慣を清算して、だれを相手として侍るべきですか。二人は無形の神様の実体です。
---
次回は、「『真』には『自分』がない」をお届けします。