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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(141)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十、約束と誓い

▲金元弼先生

過程的現象として見る神

 私たちも、すべてが約束から始まるのです。皆さんがこの道を知った時、あるいは皆さんが「統一原理」を聞いた時、あるいは神に触れた瞬間から、神と皆様各個人との間にあって、その人だけが知っている約束があったと思います。そしてその約束を成就せんがために、皆さんは必ず誓ったと思います。

 皆さんは心の中で誓ったその誓いを携えて、奪い取られたその約束をもとがえすために、さらに誓ってやまない、そういう生活の繰り返しを、今もなおされていると思います。神は愛なる神です。神は人と約束をしました。けれども、人間は約束を破りました。その約束を守らなかったけれども、神にとって愛する子女ですから、神は子女を愛するゆえに、み言を破ったという立場に立たせたくないというのです。これは神が人間を愛するからです。神は絶対に神の前に約束を破ったことがないという立場に人間を立たせたいのです。

 神御自身は、絶対に約束を破られません。そして神は、約束を破ったその人間を、一つの過程の現象として見たいというのです。

 堕落したのは、完全な、完成的な上にあって堕落したのではありません。過程の中にあって堕落したのです。そして神は、堕落し、約束を守れなかった人をして、また心を奮起させて約束を守れる立場に立たせるのです。そういう立場に立たせるためには、人間は完成基準までの過程の中にあって約束を守れなかった者として見たいのです。

 サタンに対しても、これは完成基準で犯したことではありませんから、罪の前の基準であるというのです。神はひたすら、こういうふうに弁明しているのです。サタンが神に対して、「あなたの約束を守れないその人は、罪人ではないか」と言った場合、神は「いや、完成の基準に立って、約束を守れなかったのではなく、これは過程的現象であるから、罪とは言えない」と、そういうふうに弁明されます。そして私たちに個人的理由があっての罪だと言ったら、それは認めるというのです。神の心情はそういうものなのです。

 神は、私たちの罪、人間の罪というものは、蘇生的過程においての罪と認めてあげよう、あるいは長成的過程にあっての罪の時は認めてあげるというのです。二つまでは、まだ神の基準が残っているというのです。その犠牲を払って守られれば、それは罪ではなかったのです。結局は、人間が完全な善のものになろうとするための過程的現象として、神は見たいのです。ですから、もし神が破棄してしまったら、それは罪になるのです。罪として決定されるのです。しかし、神が約束を破棄しない限り、罪にならないのです。

 許してあげるとか、その人を許すというのは、痛めつけられた立場に立っていながらも、痛めつけられていないという立場に立たせようとすることなのです。

 そういう場合に、結局は、あの人は私を痛めつけたという立場には立たないというのです。

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 次回は、「蕩減条件を立てる資格」をお届けします。


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