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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(140)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十、約束と誓い

▲金元弼先生

約束は共通目的のため

 その二人の中には必ず主体と対象がなければならないのに、二人とも主体の立場にあったり、二人とも対象の立場にあったりという関係では、約束は成り立たないのです。主体があり、その共通する目的があります。二人合わせて神の対象の立場であり、そしてまた二人には主体と対象の立場があります。

 目的を中心として、より中心的な人で目的に従う人が主体の立場に立たせられるのです。こういう内容があって約束が成り立てば、その次に、この約束を守るために、主体の立場に立っている者は、どういう心情で臨まなければならないのかを話したいと思います。

 約束には必ず目的があります。けれども、主体に立った者は、対象の立場に立っている人が約束を守っているとは100パーセント信じるなというのです。ある時は、約束を守る環境の中に、ある時は約束を守れない環境の中に落ち込んでしまうことがあるのです。

 相手は必ず約束を守ってくれるだろうという心をもっているけれども、必ず守ってくれるとは期待できないと感じなければいけません。守ってくれないとき、どういう心構えで約束を守るように導いていくのですか。その人が守れない場合、主体に立っている人は、相手が約束を守れるような立場に導いていかなければならないのです。自分の責任分担以上に、対等の立場でなさなければならない、その人の分担までも負って立つという心構えで、自分の責任を果たさなければいけないのです。

 その次に、主体に立っている人が、対象の立場の人に対して、必ず約束を守るとは考えられないということです。主体の立場に立っている人が約束を破ったら、対象の人は、その約束をあくまでも守るわけにはいかないのではないかと思うのです。ですから、対象の立場の人も、この約束を廃棄してしまおうというようになりやすいのです。けれども、約束したのはその人のためではなく、共通の目的のためであるということをはっきり知らなければなりません。

 主体の立場に立っている人は、相手が約束を破っても、その目的は破られていないと考えるのです。

 神は人間に約束をなさいました。アダムは約束を破ったけれども、その理想を実現するという目的を中心として約束なさった神の心が変わらない以上、その変わらない心と、神が立てた理想の実現という創造の目的が一致した場合、ここにもう一つの繁殖があったのです。これが第二のアダムです。この第二のアダムが現れるまでの4000年という長い間を、神が救ったその人を通して信じさせて、神は4000年を展開したというのです。そうした場合、第二のアダムの権限としてイエス様は現れたということを考えなければなりません。

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 次回は、「過程的現象として見る神」をお届けします。


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