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信仰と「哲学」132
神と私(16)
真の宗教とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 『原理講論』には、以下のように記されています。

 「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由(よし)がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久(ゆうきゅう)なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない」(31ページ)

 統一原理は、人間に初めて神の心情を証しするものです。
 この一点が他の宗教、その教義内容との違いです。このことは、いくら強調しても強調し過ぎることはありません。
 そして多くの体験、経験を通じながら神の心情と自分の心情が重なっていくのです。

 やがて「人間がその心の深みからわき出(い)づる真心からの兄弟愛に包まれる」(同 33ページ)ようになり、それは民族、宗教、国家、人種、地位など全ての壁を超える力となるのです。
 私たちは、神から力を受けて初めて、他に及ぼす真の力(愛)を実践することができるといえるのです。これこそが「真の宗教」です。

 すでに紹介したように、新渡戸稲造の宗教定義は最も核心を突いたものといえます。
 新渡戸は次のように述べています。

 「宗教とは何ぞやと問へば、私の答へは、神に接して神の力を得、之を消化し、同化して己のものとし、これを他に現はす力であると云はねばならぬ。宗教の奥義は説き難く又考へ難い。学説や理論は、此の事については何の用をもなさぬ。唯朝夕の祈疇に於て、神に近づき、神に交はり、神の力を心に実験して、之を身に現はす様にするが、何より肝要の事である。宗教を研究するのは、実行に於てする外はない」(『新渡戸博士文集』より)

 「神に接して神の力を得る」ということは、自分自身が変わるということです。これまでの自分ではない自分が現れ出るのです。この実感がまさに希望なのです。
 自分自身が変わる体験をせずに、神によって、真の宗教によって社会や国家、世界を変えるという希望は生まれてきません。

 神の力について『原理講論』は次のように記しています。

 まず、「神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ」(50ページ)とし、さらに「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである」(50ページ)とあります。

 新渡戸の定義と同じです。真の宗教は私たちを豊かに変え、隣人、万物との関係の在り方に革命を起こすのです。