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信仰と「哲学」131
神と私(15)
神に侍るとは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 一年ほど前の体験(ある日の街頭演説)を通して、「死を受け入れる覚悟」が自分自体内の心に変化をもたらし、周囲に大きな影響を与えるということを実感しました。

 それは自分自身の想定を超えたものだったので、なぜこのようになったのかを考えてみたくなりました。
 この一年ほどつづってきた内容がそのことについてでした。

 そろそろまとめてみようと思います。そして一歩進んで、統一原理が全ての人々に伝えたい内容が、「神を父母として侍る道」であることを明らかにしたいと思います。

 この間、まずそのような覚悟をした人の実例、現代人や過去の人物(吉田松陰など)、特に安倍晋三氏の第2次政権での活躍の背景につながるものとして「死を受け入れる覚悟」があったに違いないということを述べました。

 他のため、全体のため、国や世界のために「死を受け入れる覚悟」をする、すなわち正しく「自分を否定する」ことによって、なぜこのような予想外の結果がもたらされるのかについて記しました。

 自分自体内からではなく、神から来る「力」によるものであること、すなわち、宇宙の本体とつながることによって「力」を受けるからであると述べてきました。

 それは、存在論的に神と人間、神と被造世界は「共にある」からです。
 だから自分を否定することによって本体である神の力を受けることができるようになるのです(自己中心がその道をさえぎってきました)。

 それを統一原理では「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられている」(『原理講論』総序より)と表現したのです。
 そしてその関係は心と体の関係であるというのです。

 統一原理は、人間は神を父母として侍らなければならない。それが本来の生き方であると強調します。

 しかし「侍る」という言葉を国語辞典で調べると、単語としての「侍る」はなく(『新明解国語辞典』〈三省堂〉にはありませんでした)、「侍り」「侍らせる」との言葉はありました。

 総合して、「侍る」とは、「身分の高い人のそばに居る」ことの意味であることが導き出せます。
 よって、神に侍るとは、神と共にあることを意味するのです。

 統一原理は、神と被造世界との関係、神と人間との関係は心と体の関係であると述べています。
 そもそも心と体は存在の在り方として離れてはいません。私の体から離れて存在している心など想定できないのです。
 心のごとくに体が動かないということはあっても、存在としては離れていないのです。すなわち「共にある」のです。神と私の関係もまた、そのような関係なのです。

 この点をスピノザや西田幾多郎の思想、哲学などを紹介しながら説明してきました。しかし神の願いのごとく動じ静じていない私、人間であることも事実なのです。そこに全ての問題が潜んでいます。

 侍ることの意味は、共にあることだけでは駄目なのです。心情において一つにならなければ侍ることにはならないのです。
 父母に子女が侍るとは、共にあるだけではなく父母の心情と子女の心情が重ならないと、父母の心情に子女の心情が届かないと、侍ることにはならないのです。

 子女が父母の心情に触れた時、その子女たちには兄弟姉妹の心情が湧いてきます。このことが限りなく重要なことなのです。