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信仰と「哲学」130
神と私(14)
西田幾多郎が関わった神

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 三度(みたび)、神はどこにいらっしゃるのかを考えます。

 日本を代表する哲学者・西田幾多郎は、宗教について多く述べています。
 西田にとって哲学は宗教への懸け橋のような位置付けです。哲学をするのは、その人が、確かで揺るがない信仰を築き上げるためにある、と言おうとしているのでしょう。

西田幾多郎(ウィキペディアより)

 人間が宗教に求めるのは命のルーツであり、神は宇宙の根本なので、その命の関係とは、「親と子」であるというのです。そこから神と人間との本質は同じであると西田は強調します。
 そして、宗教との関わり方の(真の)基準を明示します。いわば信仰の在り方を「審判」していくのです。

 もし神と人間とがその本質を異にし、神は人間以上の偉大な力の存在であると認識しているとすれば、人間はそのような神に対しては真の宗教的動機を見いだすことはできないだろうといいます。

 というのは、そのような存在としての神に対しては、恐れてその命令に従うのみか、あるいは神にこびて利益を求めることになり、全て利己的動機でしか関わらないからだというのです。それはいわば偽の動機だというのでしょう。
 「本質を異にせる者の相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである」(『善の研究』宗教の本質 229ページ)と断言しています。

 そして宗教は、不可知的力を恐れることから生まれるものではなく、自分と血族の関係にある神を敬愛することから起こるのだと明言します。
 神と人間との真の宗教的関係には利己的動機が入ってはならないということなのでしょう。

 そして西田は「凡ての宗教の本(もと)には神人同性の関係がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ」と述べています。
 西田は、神と人間との関係について次のように説明します。

 「手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我らが神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以(ゆえん)である。基督(キリスト)がその命を得るものはこれを失い我がために命を失う者はこれを得べしといわれたのが宗教の最も醇(じゅん)なる者である」(同230ページ)

 そして神と世界について次のように述べています。

 「超越的神があって外から世界を支配するというごとき考えは啻(ただ)に(筆者注:『単に』と同意)我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とは言われないように思う」(同232ページ)

 「我々の神とは天地これに由りて位し万物これに由りて育する宇宙の内的統一力でなければならぬ、この他に神というべきものはない」(同232ページ)

 私は神の内に在り、神は私の内に在る、ということになります。
 神は今、ここに私と共に在って同じ命を生きているのです。