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信仰と「哲学」124
神と私(8)
真の人とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 「真の人は、自分がない人である」と韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁は言われています。

 「自分がない」状態の一つは、「死を受け入れる覚悟」を持っている状態といえます。
 「死を受け入れる覚悟」は、人間にある種の「覚醒」をもたらします。本人は「結果」を通じて、その大きさを知るようになります。このような現象が起こる理由と本質は「自己否定」によって存在の本体につながることにあるのです。

 いかなる存在も、存在せしめているものと存在せしめられているものとに分けられます。
 前者は「在って在るもの」「私は在る」というものであり、「自己否定」なくして「在って在るもの」とつながらないのです。
 「在って在るもの」とは神です。全ての存在を在らしめているもの、それが第一原因です。

 文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁は神と人間との関係について、自身の祈祷の中で次のように語っています。

 「お父様、天と地が一つの体のようになっていることを、私たちはみ言を通して知っております。天は主体であり、私たちは枝葉であることを考えるときに、ある一日、ある一瞬におきましても、天の愛と生命の津液(しんえき=人体中の液体)を受けなくては生きることのできない私たちであるにもかかわらず、今日、天の一つの枝と葉として生きるべき私たち自身が、永遠であられる神様からにじみ出る愛の津液を受けながら生きられなかったことをお許しください」(19561230日)

 「心と心がつながることを許諾してくださり、霊が霊を動かし、お父様の全能のみ手によって再び造られ得るこの時間となることを許諾してくださるよう切にお願い申し上げながら、主のみ名によってお祈りいたしました」(19561230日)

 神から「愛と生命の津液を受けながら生きられなかった」のは、人間の自己中心的な心情によるものです。
 あたかも「絶縁体」のように神の心情と人間の心情とが通じ合うことを妨げていたのです。

 電流が流れていない、すなわち光り輝いていない電球はとりわけ美しくもなく、それだけで何かの役に立つわけでもありません。存在している意義や価値を発揮することはできません。もし電球に人間のような意識があるとすれば、それは、何のために生きているのか、自分にはどのような個性や能力があるのかが分からない状態であるといえます。

 ところがひとたび電流が流れれば光り輝き、周囲を明るく照らし出し、多くの人々に喜びを与え感謝の念を引き出すのです。そして電球自身も自らの本性、能力を自覚するのです。
 この電流こそが神の心情です。神の「津液」なのです。