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信仰と「哲学」125
神と私(9)
人間は神と離れては生きられない

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 今回は、「自分がない」人間(=自分を中心に考えない人間)がいかに素晴らしい存在であるかを考えてみます。
 そのためには、何よりもまず、神と人間との関係について理解しておくことが必要です。

 『原理講論』に次のような文言があります。
 「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由(よし)がない。ましてや神の心情についてはなおさらである」(31ページ)

 ここで特に「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば」との言葉に注目したいのです。
 そこに、含まれている意味はどのようなものなのでしょうか。

 「神を離れては生きられない」とは、人間が神を失ったら(意識しなくなったら)、殺戮(さつりく)でもなんでも自分中心の「利益」のために行うことが許されてしまう。人間が人間でなくなってしまう。だから、人間が生きるための普遍的な倫理や道徳の基準として神を位置付けることによって、人間が人間らしく生きていくことができるのだ、という意味なのでしょうか。

 ドストエフスキーは「神がいなければ、全てが許される」と言っています。でも無神論者が全て悪魔的人間になるわけではありません。
 イワン(カラマーゾフの兄弟の登場人物)のように猜疑(さいぎ)心で凝り固まった人間になるわけではないのです。
 ここで「離れては生きられない」と記されている意味は、そのように存在しているということなのです。

 文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、「天と地が一つの体のようになっている」「天は主体であり、私たちは枝葉である」と語っています。
 さらに『原理講論』には、「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である」(47ページ)とあります。

 そうです。人間が神を離れては生きられない、という意味は存在の在り方として離れていないということを意味していたのです。

 この理解によってのみ、『原理講論』に記されている「神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか」という言葉の意味が理解できると思うのです。

 どうでしょうか。
 神は自分と離れて存在しているのではない、という意味を理解してもらえたでしょうか。
 観念、想念の世界ではありません。直感の世界です。実感の世界なのです。
 すでに前号で述べたように絶縁体が遮っているのです。
 神の実在も、そのみ旨(願い)も知らずに生きてきたのです。人間の心の根本に自己中心性が浸透しているのです。