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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(108)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
六、完全な救い

▲金元弼先生

神の願いと人の願いの一致化

 神の願いがあります。人には人の願いがあります。神の願いを受け入れないのではなく、神の願いを中心に、いかに人の願いを一致化させるかということです。神の願いに耳を傾けたら、人はついてきません。人を喜ばせるべきか、神を喜ばせるべきか。メシヤは、神の喜びと願いの道をたどらなければなりません。神の願いを、人を通じて成さなければなりません。人の願いを無視しては成就できないがゆえに、メシヤは汗と涙と血を流してこられたのです。

 メシヤの願いと目的を成さなければならない皆さんです。メシヤの願いを中心にして、兄弟の願いを一致させていかなくてはならない皆さんの立場です。ですから、皆さんの汗と涙と血がなくてはならないのです。

 ある期間を設けて、一生懸命にやるのです。これを成したら何か得られるだろうと考えてやるのです。しかし、何も変わったものがないとします。そしてもし、無限にやらなくてはならないとしたら、皆さんはあきらめてしまうでしょう。しかし、何年何月までという期間があったら、それを期限として、それが終わったならば何か変わるだろうと思って、力が出ます。しかし、何も変わったものがなく、自分自身が願った基準にかなわないとき、非常にむなしくなるのです。

 そういうときは心霊復興が必要となって、また次に備えるのです。今度こそ熱心に頑張ったら与えられるだろうとしてやるのですが、そんな時、何かだまされるのではないかと思うこともあるのです。だまされると思うのは、自分を中心とする時に起こる心です。

 最初は自分のためにではなく、国のために、人のためにということで出発したのです。自分のためにではなく、人のため、国のためにやったのですが、実績が出なかった場合、再度行かなければならないのに、そういう場合に、すぐ自分に帰ってくるのです。私のためにという心に帰ってくるのです。ですから、むなしくなるのです。

 「私はためになったのですか」と神に聞きもせず、メシヤに聞きもせず、自分で考えて、自分に帰ってきて、むなしくなるのです。

 人のためにと思って出発したのですから、結果も人のために、としなくてはならないのです。しかし、出発は人のために、結果は自分のためにとなるのです。出発が自分のためであれば、結果も自分のためになるのです。

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 次回は、「堕落性を脱ぐために」をお届けします。


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