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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(109)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
六、完全な救い

▲金元弼先生

堕落性を脱ぐために

 メシヤは、この時が来ることを願っています。堕落性を脱ぐためには、堕落した環境の中にあって抜き取るのです。人のために行動している時は、自分のための堕落性は抜き取れません。人のために行っていたのに何の実績もなく、我に返ったその時、自分のための堕落性を抜き取る絶好のチャンスです。

 メシヤは、復帰の摂理を進行させながら何を願ったかと言えば、人々の堕落性を脱がせてあげることです。個人のためにしている時は、個人の堕落性を脱ぐことはできません。家庭のために行う時、個人のためにという心が起きても、家庭のために己を犠牲にするという心をもって己を抜き取るのです。個人的堕落性は、家庭の問題を通じて脱ぐのです。家庭的堕落性は国家の問題を立てて抜き取るのです。

 家庭的堕落性を脱ぐためには、家庭を犠牲にしなさいというようなことでは脱げません。堕落性というものは潜在していますから、あらわにしないと脱げないのです。ですから発露させるためには、氏族や民族とかを両立させて、何を先になすべきかという時に、民族を選んだら、家庭的堕落性は脱げるのです。

 個人のため、家庭のためという自分中心の堕落性を脱ぐために、神は父母や兄弟に行くより、神に帰ってくることを願うのです。神を取るべきか、父母や兄弟を取るべきか。堕落性を脱ぐためには必ず、両方がなければならないのです。

 家庭を捨てて開拓伝道に出ます。これが韓国での祝福家庭です。民族を愛するか、家庭を愛するか、この時家庭のために堕落性があらわになってくるのです。世界のために国を犠牲にしてもいいという時、国家的堕落性が脱げるのです。

 私たちが何をなすにも、その出発をはっきりしなければいけないのです。神の六千年の復帰摂理は、アダムとエバが自分を中心にして堕落したのですから、自己否定の道へ導いていくのです。導いて、私たちの完成を願い、自分のためにという心を否定させるのです。

 摂理を導いていくメシヤは、天的蕩減条件を立て、そして神の摂理を成就していくのです。皆さんに疑いがあっても、メシヤの立場から見れば、必ず何か成就されていることを知らなければなりません。

 「為(ため)に行う」というのは、誰を中心に行っているのかということです。蕩減条件が成る、堕落性が脱げるというのは、メシヤを中心とした因縁をもっているからこそ、堕落性を脱ぐ条件が成立するのです。メシヤとの因縁をもたないで、自分を中心として、人のためにやり、国のためにやったとしても、堕落性は脱げません。これをはっきりしなければなりません。

 この世の中に宗教はたくさんあります。この人たちは自分なりの神を中心として、国のためにといいますが、根本的には堕落性が脱げません。もしこの人たちによって堕落性が脱げるとするならば、統一教会は必要ないのです。神と一致したメシヤを中心とすることによって、堕落性が脱げるのです。

 メシヤを中心として、自己のためにではなく、神の願う世界のために自分を捨て、否定していく道を通じてこそ、堕落性は脱げていくのです。

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 次回は、「『父母の日』/子女を通じて神の創造を知る」をお届けします。


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