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真のお母様の人生 5

お父様、子女様、統一家食口のために歩んでこられたお母様の人生

(『TODAY'S WORLD JAPAN201312月号「証し お父様、子女様、統一家食口のために歩んでこられたお母様の人生〈前編〉」より)

 『TODAY'S WORLD JAPAN(トゥデイズ・ワールド ジャパン)』に掲載された、鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長の証しを毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

 真のお父様と最終一体をなし、天宙の母として立たれた真のお母様とはいかなるおかたであるのか。真のお父様が霊界から「あなたは神様が摂理のために私に下さった最愛の妻であったばかりでなく、最も誠実で身近な弟子だった」と語られた、そんなお母様のお姿の一端に触れることのできる証しです。
 この証しは2003年、真のお母様の還暦を祝って韓国で刊行された「韓鶴子(ハン・ハㇰチャ)総裁還暦記念文集」の第2巻に掲載されたものを翻訳し、整理したものです。(編集部)

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【北朝鮮】
お父様のご親戚に寄り添い優しく温かく心を配られた

 19911130日、真の父母様は金日成(キㇺ・イㇽソン)主席(当時)に会うために、北京を経由して北朝鮮に入られました。

 そのための準備を父母様はハワイでなさいました。そのとき私は何も知らず、ただお母様から「今からハワイに行くわよ。だけど冬服が必要ね」というみ言を賜りました。私は「ハワイは夏なのに、どうして冬服が必要なのだろう」と思いながらも、今後どういうことが待ち受けているのか、夢にも考えることはできなかったのです。

 父母様に侍り、朴普熙(パㇰ・ポーヒ)総裁ご夫妻、金孝律(キㇺ・ヒョウユㇽ)補佐官、尹基炳(ユン・ギビョン)補佐官、私たち夫婦らが同行しました。父母様はハワイの島々を回りながら精誠を尽くされました。

 お母様から北朝鮮に行くことを告げられたのは、ハワイでの最後の日でした。お母様は「これは極秘です」とおっしゃいました。私はあまりの驚きに身の毛がよだち、言葉も出ませんでした。父母様のおそばにいながら、そのようにとてつもない計画を進めておられることを、気づくこともできずにいたのです。

 北京に到着し、黄燁周(ファン・ヨプチュ)氏と合流しました。そこで、韓国国籍を持った者だけが北朝鮮に入れると言われ、アメリカ人である私の夫は北京に残ることになりました。

 北朝鮮で準備した金日成主席の特別専用機が、父母様を迎えるために北京に飛んできました。これは夢か、現実か-。北朝鮮の美人女性案内員が降りてきて、親切に案内をしてくれるのです。感動と感激の涙が流れ、同時に不安の涙も流れるのです。父母様の身辺の安全が一番の気がかりでした。飛行機が滑走路を離陸するとき、全身に鳥肌が立ち、期待や心配など万感が胸に迫りました。

 そのような中でも、お母様はいつもと変わらないごようすで、ほほえみを絶やさずにおられました。飛行機が清川江(チョンチョンガン)を通り過ぎると、お母様は昔の歴史を振り返られました。「これが清川江ね。ここで乙支文徳(ウㇽチ・ムンドㇰ)将軍が薩水大捷(サㇽスデチョプ/612年に高句麗〈コグリョ〉が隋の軍隊との戦いで大きく勝利したこと)を成したのね」。さらに「この川でどのように知恵深く戦って勝ったのだろうか」とも語られました。

 そうこうしているうちに、私たち一行は、話にだけ聞いていた平壌(ピョンヤン)に到着しました。お父様のお姉様と親戚のかたがたが空港で待っておられました。お姉様をごらんになるとお父様は、「私の家内です」とお母様を紹介されました。お父様の兄嫁様もいらっしゃいました。

 123日のこと。1日の日課が終わり、部屋で横になっていました。廊下は真昼のように明るく、ドアの鍵を中から閉めることができない状況で、一人で寝るのが恐ろしかったことを覚えています。そういう中、突然ドアが開く音がしたので、びっくりして目が覚めました。お母様が入ってこられ、「正装に着替えて、3時までに父母様の部屋に集まるように、皆に静かに伝えなさい」とそっと耳打ちされました。午前2時でした。

 何のことかも分からないまま、真夜中の廊下を足音を忍ばせて歩いて金孝律補佐官の部屋に入った私は、お母様が語られたことをそのまま伝達しました。午前3時、一行全員が集まると、特別祈祷式が挙行されたのです。

 125日、咸鏡南道(ハㇺギョンナㇺド)の咸興(ハㇺフン)招待所に行きました。咸興は、お父様が興南(フンナㇺ)に行く前におられた所でもあります。闇が深くなり始める頃、咸興招待所に到着し、旅の荷をほどきました。

 翌6日、いよいよ金日成主席に会うために、麻田(マジョン)にある主席公館に向かいました。公館は白い石造りの館で、四角形に造られていました。金日成主席が立って父母様を待っていました。その瞬間、「赤い魁首(かいしゅ)、金日成を打倒しよう」と叫んだ学生時代の雄弁大会の光景が思い浮かびました。

 会うや否や、お二人は互いに抱き合われました。挨拶を交わし、写真撮影を終えてから、晩餐(ばんさん)会場に向かわれました。

▲金日成主席(当時)との歴史的な会談を終えられた真の父母様。後列右から2人目が鄭元周補佐官(1991126日、咸興の金日成主席公館)

 メニューは非常に豪華でした。食事は一人分ずつ用意されました。北朝鮮では7日間で21回食事をしたのですが、一度も同じものを食べることはありませんでした。毎回、違う食事が出てきたのです。まず、ご飯の種類が多彩でした。21食のうち、同じご飯が出てきたことは一度もありませんでした。お父様に、「どうしてこんなにいろいろなご飯があるのでしょう」とお尋ねしたところ、お父様は「北朝鮮には300種類を超えるご飯がある」と語られました。王宮法によれば、ご飯の種類だけでも332種類になるというみ言が改めて思い出されました。

 餅(もち)も毎食、違う種類が出されたのですが、中でも、見た目がカステラのようなかぼちゃの餅が非常においしくて、その味は今も忘れることができません。

 金日成主席との会食は、とても和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気でした。金日成主席はお父様を非常によくもてなし、心から尊敬の意を表しました。金日成主席は凍ったジャガイモで作った荏胡麻(えごま)そばについて、「文総裁ご夫妻のために特別に注文しました」と説明しました。金日成主席が「5月に妙香山(ミョヒャンサン)へ遊びに行き、そこで狩りを一緒にしましょう」と誘うと、お父様は「アラスカで釣りを一緒にしましょう」と招待されました。

 お二人はジュースの味がするクロマメノキ酒で乾杯をなさいました。その杯は小さなものですが、それを持っていれば、金日成主席と乾杯したという証しとして、死刑に値するような罪も赦(ゆる)されるほどの権威があるのだそうです。

 お父様と金日成主席はお互いに、自然な形でメニュー表にサインをなさいました。お父様は金日成主席に、金日成主席はお父様にサインをしました。お二人は、随行員にも一緒にサインをしてくださいました。メニューが書いてある面には金日成主席が、その裏面の白紙にはお父様がサインをなさったのです。

 お母様はこの期間も終始、優雅で堂々としていらっしゃいました。北朝鮮では、夫人は家にいるだけの存在であり、外部の行事には現れないのが原則のようでした。夫人は絶対に夫と並んで歩くことはできず、常に夫の何歩か後ろを歩かなければならないのです。そのため、いつも案内員がお母様を制して、お父様との間に立つのでした。それでもお父様は、常にお母様の手を握って歩かれました。お母様に対するお父様の配慮は素晴らしいものでした。

 お母様は北朝鮮に行く前にソウルでショッピングをされ、北朝鮮の関係者とお父様のご親戚に贈る厚いコートのようなものを準備しておられました。お母様は親戚にお会いになって、非常に喜ばれました。苦労している親戚をごらんになっては心を痛め、温かく接しておられました。年頃の姪御(めいご)さんには「お嫁には行くの?」と尋ねながら、優しく対されました。お父様が表現はなさらないけれども、親戚を前にして心を痛めておられることをお母様はお察しになり、そばに寄り添って深く慰めてさしあげられたのです。

▲親族のかたと共にご両親のお墓参りをされる真の父母様。左から2人目が鄭元周補佐官(1991125日、平安北道定州)

(続く)

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 次回は、「息もできないほどの暑さの中開拓の先頭に立たれた」をお届けします。

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