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日本人のこころ 73
田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(下)

(APTF『真の家庭』294号[20234月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

国民あげての聖武天皇祭
 東大寺で一番大切で盛大な行事が、聖武天皇が亡くなった52日に催される聖武天皇祭です。朝8時から天皇殿で論議法要が行われ、この法要の時だけ、日ごろは公開されていない天皇殿に参拝することができます。

 午後1時から、華やかな練り行列が始まります。カラフルな衣装で着飾り造花を手にした稚児たちをはじめ、雅楽を奏でる楽人、市女笠(いちめがさ)をかぶって垂衣をたらした物詣女(ものもうでおんな)や、法要を行う正装した僧侶など、総勢300人もの長い行列です。境内のはずれにある奈良県立新公会堂を出発し、南大門をくぐって大仏殿まで練り歩き、一行が大仏殿に着くと、大仏の前で法要が営まれます。

 中門前の鏡池に作られた特設水上ステージでは、舞楽と能の奉納が行われます。風光明媚な鏡池の真ん中で行われる古典芸能は風情とみやびが織りなし、国民をあげて聖武天皇の遺徳をしのぶ思いが伝わってきます。

 聖徳太子を「和国の教主」と呼んだ浄土真宗の親鸞をはじめ、日本の仏教界で宗派を超えて崇拝しているのが、推古天皇の時代に摂政を務めた聖徳太子です。太子の子・山背大兄(やましろのおおえ)は一族もろとも、蘇我氏によって火をつけられた法隆寺と共に滅んでしまいます。その悲劇の中から生まれてきたのが「太子信仰」で、厩戸王(うまやどのみこ)として政務をとった姿が、王子でありながら出家した釈迦に重ねられ、釈迦の生まれ変わりというのが太子信仰です。さらに、若い釈迦を造形化した半跏思惟像が聖徳太子をイメージさせ、この信仰は四天王寺などの建設に携わった大工たちから庶民に広まり、「太子講」として今も続いています。田村圓澄先生は、厩戸王を「太子」に神格化したのは中大兄(なかのおおえ)ではないか、と推測しています。

▲聖徳太子(ウィキペディアより)

氏族仏教から国家仏教へ
 田村先生は『仏教伝来と古代日本』で「欽明天皇が仏教に対して傍観・中立であったというそのことが、日本における神仏習合の道を開いた」と述べています。仏教受容の態度を表明した蘇我稲目に仏像などを与えて蘇我氏の仏教信仰を認めたことが、神仏習合の第一歩になったというのです。

 では、なぜ欽明天皇は仏教を受容しなかったのでしょうか。その理由の一つは、仏教の効力に対する疑問で、仏教を受容した百済は、毎年のように高句麗と新羅から攻められ、国力が衰退していました。二つ目の理由は、日本の天皇は土地と民を支配する軍事的な権力者ではなく、司祭者という宗教的な権威者で、自らが住まう宮で神を祭り、祭儀を行っていたことから、そこに外国の神である仏像を迎え入れることに抵抗があったことです。

 個人として仏教に帰依した最初の天皇は用明天皇ですが、次の崇峻天皇には引き継がれず、天皇として初めて仏教受容の道を開いたのは舒明(じょめい)天皇です。それは、推古天皇の時代に唐に派遣された留学僧が帰国し、先進国である唐や新羅では、仏教が宮廷仏教から国家仏教の段階に進んでいることを報告したからです。日本で国家仏教の道を開いたのが、舒明天皇の皇子の天武天皇で、中大兄皇子が即位した天智天皇の同母弟です。仏教は蘇我氏の「氏族仏教」から舒明天皇の「宮廷仏教」、そして天武天皇の「国家仏教」へと発展したのです。

 天武天皇は、天皇が治める国土と人民が仏教によって守られることを説く『金光明経』や『仁王経』を僧尼に唱えさせる一方で、神に幣帛(へいはく)を捧げて降雨を祈らせるなど、神と仏が共に国家を守護し、天皇の政治を支援するようにしています。こうして鎮護国家の仏教が成立し、その象徴として官制の寺が飛鳥とその周辺に建てられます。さらに関東から九州まで530の寺が建てられ、国家仏教は全国に広がります。古代国家は律令制と仏教によって成立したのです。

 仏教の伝来は仏像と経典、僧侶が来るだけではなく、寺を建てる大工をはじめ彫刻や絵画、工芸、舞踊、音楽など幅広い文化・芸術集団の渡来でした。文化の総体が移住してきたのです。これを田村先生は「伽藍仏教」と呼び、自宅に仏像を置いて信仰する「私宅仏教」と区別しています。神道が自らを「神道」と呼び、神を祭る社殿を建てるようになるのも仏教の影響です。さらに創始者と経典のない神道が、教義を作り上げるのは神仏習合の時代を経た中世の伊勢神道や吉田神道からで、神道も仏教と共存しながら発展してきたのです。

 古代国家成立の時代に仏教が渡来してきたのは日本にとって幸運でした。なぜなら、土地や一族の神を祭る民俗宗教の神道では、統一国家の思想にはなれないからです。それに対して仏教は普遍宗教で、氏族や地域を超えて人々の心に届く教えでした。私は、それに気づいた最初の日本人が聖徳太子だと思います。

 国民をあげて大仏を造りたい、との思いに協賛し、人々を動員して支援したのが行基です。国家仏教の僧は政府が認めた官僧だけでしたが、行基は勝手に出家した私度僧(しどそう)ながら、流浪の民を集めて布教しながら池を造り、橋を架けるなど公共事業を行っていました。行基は百済からの渡来系氏族で、周りに技術者集団がいたのでしょう。その姿に後の空海が重なります。聖武天皇は行基を大僧正に抜擢し、行基が率いる民の力で大仏は完成したのです。

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