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日本人のこころ 72
田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(中)

(APTF『真の家庭』293号[2023年3月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

仏教伝来と神仏習合
 昨年10月5日、東大寺境内にある手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の例大祭「転害会(てがいえ)」が東大寺の僧を迎えて行われました。転害会は大分県の宇佐神宮(宇佐八幡)から天平勝宝元年(749)、東大寺の大仏造立を助けるためやってきた八幡神を、東大寺の北西、奈良市一条通の東端にある「転害門」で迎えた様子を再現する神事です。「てがいもん」という名称は、この門の東にあった食堂に、水車で回して穀物を挽く中国式の石臼・碾磑(てんがい)があったからです。平安時代に「手掻」となったのは、八幡神が諸神に協力するよう手招きする仕草が手で掻くようだったから、「転害」になったのは中世以降で「害を転じる」の意味からです。

 聖武天皇は天平15年(743)、「一枝の草、一把の土を持ちて」参加するよう、大仏建立の詔を発しました。ささやかでも国民の力を結集して大仏を造ろうとの呼びかけは人々の心を動かし、260万人もの協力者が現れたので、当時の人口の約半分が携わる一大国家プロジェクトになります。

▲聖武天皇像(ウィキペディアより)

 しかし、膨大な国費の投下に反対もあるなか、宇佐の八幡神が「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る」という託宣を出したので、喜んだ聖武天皇は八幡神を東大寺に迎えたのです。

 すると、八幡宮のご利益でしょうか、朝鮮か中国から買うしかないと思われていた大仏に塗る金が、日本で初めて陸奥国で発見されたのです。また、宇佐は銅の産地で、そこにいた銅の精錬や鋳造の技術者集団も大仏造立に協力したのでしょう。

 田村圓澄(えんちょう)先生は、日本における神仏習合は宇佐八幡に始まり、全国に広がったと述べています。今、八幡宮は約44千社あり、その総本社が宇佐八幡です。平安京ができると八幡神はその守護神として石清水八幡宮に、鎌倉幕府では鶴岡八幡宮に招かれ、源氏の氏神になっていたので、有力武士たちにより全国に八幡社が建てられたのです。

 宇佐八幡は新羅から宇佐に渡来した氏族の神が、地元の大神(おおが)氏、辛嶋氏、宇佐氏の氏神と合わさった神です。八幡は八つの旗を意味し、それが「宇佐周辺の韓国の人たちの居住地に天下りした」と田村先生は説明しています。

 都が藤原京から平城京に遷った710年の10年後、九州南部で隼(はやと)人の反乱が起こり、朝廷は大伴旅人を将軍に任命し、討伐に向かわせます。宇佐で徴兵された兵士も参加し、討伐に成功したのですが、その後、宇佐八幡は「殺生の罪を犯して苦しんでいるので、仏に救ってほしい」との託宣を出したのです。宇佐八幡の神職を務めていた三つの氏族はそれぞれ氏寺を持っており、新羅から渡来した仏教も信仰していました。神が仏に救済を求める先例は新羅にあるので、宇佐八幡はそれにならい仏に救いを求めたのでしょう。

 そのための神事として、宇佐八幡は捕らえた魚を池に放す放生会(ほうじょうえ)をするようになり、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮にも継承されています。こうして、宇佐八幡は日本における神仏習合の源流となったのです。

仏教立国への道
 田村先生は、九州の辺鄙(へんぴ)な地にある宇佐八幡が大仏造立支援の託宣を出したことで、聖武天皇の事業が、畿内に留まることなく全国に展開したと言います。聖徳太子に始まる仏教立国の理想が、全国に国分寺、国分尼寺を建てた聖武天皇の時代に概成したのです。

 仏教の伝わり方には公伝と私伝とがあります。公伝は王から王へと伝えられるもので、日本は百済の聖明王から欽明天皇に仏像と仏典が贈られたのが、538年の仏教公伝です。仏教がインドから中国に伝わったのが1世紀、中国から朝鮮に伝わったのが4世紀後半で、それまでも中国や朝鮮半島から渡来した人たちや、日本から中国、朝鮮に渡った人もいますから、個人的に仏教に触れ、信仰するようになった人もいたはずで、それが私伝です。

 仏教伝来時代の朝鮮は高句麗・百済・新羅の三国時代で、高句麗には前秦から、百済には東晋から伝わり、両国は中国の王から朝鮮の王への下賜ですが、新羅の場合は高句麗から伝来した仏教を信仰するようになった貴族の殉教を機に民衆にも広まりました。

 当時の朝鮮は中国に従属していたので、中国の王から仏教を下賜された朝鮮の王は、それを拒むことはできません。それに対して新羅では、家臣から民衆に広まった弥勒信仰が国を発展させ、ついに三国統一を成し遂げたのです。

 他方、百済は、王が仏教を受容したものの、それほど広まりませんでした。聖明王が欽明天皇に仏教を伝えたのも、高句麗の侵略を防ぐのに力を貸してほしいとの思いからです。当時の日本(倭国)は中国に従属していないので、百済と日本は対等な関係にあり、仏教は王から王への贈与として伝えられても、受容するかしないかは欽明天皇の自由でした。

 欽明天皇が賢明だったのは、仏教に中立的な立場を通し、仏像と経典を既に仏教を信じている蘇我氏に授けたことです。そして廃仏派の物部氏との間に争いが起こり、武力で蘇我氏が勝ったことから、蘇我氏の勢力拡大に伴い仏教が広まっていきます。

 ところが、唐で学んだ留学僧が帰国し、中国では仏教が王権の一部であることが分かります。そこで中大兄皇子が主導した大化の改新で蘇我氏を滅ぼすと、天皇家は仏教を正式に取り入れ、以後、仏教は天皇による統治の一つとして広布されるようになったのです。

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