日本人のこころ 71
田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(上)

(APTF『真の家庭』292号[20232月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

日韓二つの半跏思惟像展
 2016年、東京・上野の東京国立博物館で、日韓国交正常化50周年記念特別展「ほほえみの御仏二つの半跏思惟像」が開かれました。出展されたのは、奈良・中宮寺門跡蔵の国宝半跏思惟像(飛鳥時代・7世紀)と韓国国立中央博物館蔵の韓国国宝78号半跏思惟像(三国時代・6世紀)で、門跡とは皇族や公家が住職になる寺のことです。

 半跏思惟像(はんかしゆいぞう)とは、左足を踏み下げ、右足をその膝の上に組んで坐り、右手を頬に添えて思案する仏像で、物思いにふける(思惟)ことがその名の由来。出家前の釈迦が人々の救済を求め深く考えていた姿だとされます。

▲(左)中宮寺の国宝半跏思惟像と(右)韓国国立中央博物館蔵の韓国国宝78号半跏思惟像

 静かな微笑みはアルカイック・スマイルと呼ばれ、古代ギリシアのアルカイック美術(紀元前75世紀)の彫像に見られます。日韓の半跏思惟像の表情を比べると、韓国の像の表情がはっきり微笑んでいるのに対して、日本の像はややあいまいに微笑んでいます。今の韓国人と日本人の感性にも符合して、面白いですね。

 半跏思惟像は、仏教が生まれたインドに始まり、中国、朝鮮、日本へと伝わり、日本と朝鮮では6世紀から8世紀の間に多くの像が造られました。奈良県の中宮寺に伝わる国宝の半跏思惟像はその一つで、韓国国立中央博物館の銅製の半跏思惟像も、国宝として韓国の人々に親しまれています。日本と韓国に同じ姿の仏像があるのは、両国の古代から続く交流の深さを物語っているようです。

 三国時代の朝鮮では多くの半跏思惟像が造られ、日本の半跏思惟像はその影響を強く受けて造られました。国宝78号像は、銅造ながら高さが83センチある大作で、金銅仏らしい鋭利な表現が見られる一方、ふくよかな指をふっくらとした頬に添え、伏し目がちで、口元に微笑を浮かべています。当時の朝鮮では弥勒信仰が盛んで、半跏思惟像も弥勒仏として造られました。弥勒菩薩(マイトレーヤ)は釈迦の次に現れる未来仏で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済すると信じられていました。

 弥勒の下生(出現)に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強いため、反体制の思想になる例が各時代にあったのです。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教がその代表で、ユートピアである「弥勒仏の世」の出現を期待する、仏教におけるメシア思想です。

 日本でも戦国時代、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行しました。江戸期には富士信仰とも融合し、百姓一揆や世直し一揆の中に、弥勒思想の強い影響があります。沖縄のミルク神もその一つで、ミロクが変化したものです。

 日本で仏像製作が始まったのは7世紀初めで、その頃の作品は左右相称で硬く厳かな表現が特徴です。初めは渡来人の仏師が造り、次第にそれを学んだ日本人が製作するようになると仏像も日本化していきます。中宮寺の半跏思惟像は7世紀後半の作で、柔らかい微笑み、ゆったりとした姿勢などの新しい表現と、肉身の起伏や衣の襞(ひだ)の形を単純化した旧来の表現が重なり合って、清楚で上品な雰囲気を醸しています。

 朝鮮の仏像は金属製ですが、日本では他の飛鳥時代の木彫仏と同じように、この像もクスノキで造られています。木が豊かだったことと、古来からの祭祀で木は神の依り代とされてきていたからでしょう。中宮寺門跡では、聖徳太子が母君、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の姿を刻まれたと伝えられています。

新羅仏教と日本仏教
 日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖明王が欽明天皇に仏像と経典などを贈ったことで、百済仏教の影響を強く受けていたとされてきました。それに対して、新羅仏教の影響の方が強いと主張したのが日本史と仏教史が専門の田村圓澄(えんちょう)・九州大学名誉教授です。『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫)の「まえがき」に、「日本の場合、百済より新羅とのつながりの強いことが注意される」とあります。

 「神功皇后の三韓征伐」のように古代日本は新羅と敵対関係にあったのは事実ですが、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた百済から、日本に亡命した人たちが史書の執筆に加わったことで、ことさらそれが強調されるようになります。それを変えた一人が聖徳太子で、白村江の戦の後、唐と対立するようになった新羅から、多くの文物が流入するようになります。

 「仏教の伝来は、いってみれば日本の神が異国の神である仏と出会ったことであるが、日本では、両者の関係に決着がつけられるまでに二世紀が必要であった。そのとき仏は救済者の地位につき、日本の神は被救済者の地位に置かれるのであるが、この結着は神と仏の問題である以上に、古代国家の政治の問題でもあった」と前掲書にあるように、護国仏教として受容し、仏教立国を目指すようになった日本にとって、手本となったのが弥勒信仰を持つ花郎(ファラン)という青年組織により三国統一を果たした新羅でした。飛鳥時代に始まる新羅仏教の影響の頂点が、国分寺総本山として建立された東大寺です。

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