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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(99)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
四、メシヤと霊界

▲金元弼先生

神を中心として見る

 1960年までは、先生はいつも食卓なしで、床の上に直接お盆を置いて食事をされ、60年になってから初めて食卓で召し上がるようになりました。

 先生の誕生日なども、天は非常に先生を愛するからこそ、盛大に祝うことを願うのです。親が愛する子女のために盛大にやってあげたいのは、当然でしょう。

 しかし先生は、神のみ言を聞かれないときがあるのです。先生は、「私の誕生日のために何か準備しているんだろう。そのお金を全部集めなさい」と言って集めさせて、神に向かって、「今、こういう時にありまして、あなたにはこういう願いがあるのではないでしょうか」と尋ねられます。

 例えて言えば、今地方にはたくさんの教会があります。ところが車がないから、いちいち歩きながら伝道しなければならず、地区長はバスに乗ったり、歩いたりしながら兄弟たちを見守ってあげなければならないとします。それでは神の摂理を進めるのに、非常に良くありません。早く世の中の人にみ言を伝えるためには、機動力が必要だと考えるのです。ですから先生は、「私の誕生日を盛大にやってくれるのも有り難いけれども、このお金で車を買うのはいかがでしょうか」と尋ねられ、そして車を買うのです。神のみ言を行わなかったけれども、神はお怒りにならないというのです。

 親が愛する子供のためにたくさんのお金を惜しまず使おうとした場合に、その子供が「そのお金を使わないで私に下さい」と言って、それを、親を喜ばせるために使ったとするならば、その親は、親不孝者だとして叱りつけるでしょうか。それとも、そういう心遣いの子供を見て、涙ぐましく感じるだろうか、ということと同じです。

 また1014日には、先生が興南(フンナㇺ)の刑務所から自由の身になって釈放されたその日を記念して式典を行うことがあります。「今度の14日の式典はどのようにしましょうか。教会内でしましょうか。野外にしましょうか」と伺ったら、先生は、「今年までは守らなければいけないよ」と言われたのです。先生にしたら、非常に思い出深い日であるのです。私たちとしても、先生がこの日を勝利して自由の身とならなかったならば、私はこのような立場にはならなかっただろうということを考えると、この時が非常に貴い日であると考えざるを得ないのです。

 ところが先生は、「私が釈放された記念すべき日だ」として守るのではなく、「そういう危うい境地の中にありながらも、私をこのように見守ってくださった神の愛を記念すべき日だ」と考えられるのです。

 例えば世の中でも、非常に難しい学校に入学した記念すべき日が巡ってくると、自分が合格した喜ばしい記念の日だと考えがちです。しかし、私にこういうような感激の日を迎えさせんがために、陰に陽に親が苦労してきた期間があり、それが実を結んだ日であるということを考える人がいるとしたならば、その日をいい加減に迎えられないのです。親の苦労をしのぶ日として守らねばならない記念の日です。

 もし先生が、自由の身として釈放された記念すべき日として判断されたとするならば、「今年まではこの日を守らなければならない」ということは言われなかっただろうと思います。ところが、先生が「この日を記念しなければならない」とおっしゃったのは、「私を守り、自由の身としてくださった神の愛を記念すべき日だ」と考えてこられたからこそであることが分かるのです。

 こういう心掛けは、神が幻に現れて教えるということより、もっと貴重な教えだと思います。

 私たちはこの教会に入会した日を考えて、「ああ、この日が教会へ入った日なのだ」として自分自ら祝うのではなく、「神が私を入会させるために苦労なさった、その苦労が一段落して実を結んだ日として記念すべきではないか」ということを考えると、メシヤに対する霊感が非常に敏感に私たちに移ってくるだろうと思います。私を中心としないで、いつも神を中心として考える考え方、父母を中心とする考え方によって、神に対する霊感が鋭敏になっていくと思います。幻とか霊の体験によって霊感が開けていくのではないと思います。

 神を中心とした心構えで見つめていくとするならば、霊能者たちが見たり、聞いたり、話したりするのに比べて、私たちはその心の奥底を知ることができるのです。霊的体験がないからといって、気落ちすることがないようにしてください。

 人間の堕落とは、神を中心として自分を一致させることができなかったのが始まりです。神は人間を創造する時、どのようにして創造されたのでしょうか。

 親は子供を、おなかに宿します。おなかの子供は自分というものがあっては、絶対に生きていけません。親が食べたものをそのまま食べて、親が考えたものをそのまま受け取るのです。少しでも親に反対すれば、生まれてはこられないのです。

 完成の基準が成り立つまでは、神のみ言のとおりに、神と一致したものでなければなりません。人間の5パーセントは、自分を立てないということです。神を先に立てるのです。おなかの子供を人間に例えて話したのです。親が動いても、止まっても、同じようにするのです。人間は神を中心として、通過しなければならなかったのです。

 なぜ神は、自分というものを先に立てるのが嫌かと言えば、それは人間が主体を中心とする対象となることによって、第二の主体として立つようにされたからです。神の創造性を受け継いだ、神の創造のみ業に一致した権威を与えようとされるのです。ところが、ここに自分というものがあるというのです。堕落しない親を中心として一致しなければなりません。完全なる親というものはないのですが、神が完全なる人として送ったのは、メシヤです。また、メシヤは、私たちにとって完全なる親として立つのです。

 ですから私たちは、親の言葉に絶対に服従して一つになっていかなければなりません。初めから神と一致して歩んでいかなければならなかったのが人間です。神を中心とした私に帰るということです。

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 次回は、「過去を再現して復帰する」をお届けします。


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