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心情開拓
心霊を育てる生活原則(95)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【イエスを中心とする路程】
イエス様への第二試練

 それからサタンはイエス様を、聖殿の頂上に立たせて、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言っています。ということは、サタンもイエス様の位置を知っているということです。神から愛される一人息子は、この地上の聖殿の主人であるということを知っているのです。知っているから、「あなたはメシヤとして、聖殿の主人として、だれもあなたに侍る人がいないではないか。侍る人もいないのに、主人の立場にいる必要はないではないか」と。これは、サタンが存在意識を奪おうとしているということです。「なんだ、あなたは。神の息子だ?」、そのことだけでも奪おうとするのです。

 悲惨な立場に陥っているから、だれも侍る人はいません。家族もいない。なんにもないから、サタンは「お前なんだ! そんな立場にいながら、世間を心配し、イスラエルを救う? そんな考えするなよ」と言うのです。私たちもそういう試練にぶつかるのです。

 たまに私たちも、良い時、うれしい時は、「ああ神様! お父様!」と、自分も神の子と思って言いたいけれども、一方で、「私は、こんな足らない者……」と言います。この「足らない者」と言うのは、これはサタンが言わせるのです。自分が、本心が言うのではないのです。

 本心は神の神性ですから、本心は自分と神とを二つと考えないのです。しかし私たちは、いつもこの自分というものを、神と自分との相対関係と思うのです。「足らない者が、今まで知らずに、『お父さん、お父さん』と言ったけれども、考えてみるととんでもない。こんな者が」。これはサタンが言うのです。サタンが讒訴(ざんそ)する方向に引っ張ろうとしているのです。

 そして世間の人たちを見ると、信仰しなくても、にこにこ笑いながら歩いています。銀座あたりへ行ってみると、信仰も何も知らないでも、様子がとても立派に見えるのです。自分が足りないと思い、信仰しない人たちを見ると、彼らのほうが幸福そうに見えるのです。そういう時があるのです。そして、「これは統一教会、『原理』を聞かなかったら良かったんだ」となってしまいます。

 み言を聞いてみると、否定もできないし、それだからといって信仰してみると、自分が復帰摂理を担うなんて、これは話にならないと思うのです。家庭的にもこんな立場の人間が、日本を救う、世界を救う? これは並大抵なことではないのです。なんだか自分がぺちゃんこになっていってしまうので、聖殿の上から下に落ちたような気がするのです。復興した時には、この日本全体をも懐に抱いて、本当に神の代わりになって祈った自分が、落ちた時には、もうとんでもない所へ来たように見えるのです。

 だからサタンは、イエス様をぺちゃんこにするために、「こんな立場で、メシヤだ、聖殿の主人の立場だと言って、なんだ、それは間違っている」と言ったのです。

 そこで「神を試みるな!」と、イエス様は言われたのです。人間はもともと、神と一体の立場です。いくら悲惨な立場にいても、神のものです。その言葉によって、イエス様は勇気を得たのです。「これは試練だ」と。イエス様はその時には、本当にそう感じて、勇気を得たのです。「人間はもともと神と一体だ、神のものだ、自分を自分のものと考えるのではない」、こういうふうに思ったのです。

 イエス様も人間だから、私たちと同じです。ただこういう時に、考えた立場が違い、心情の動機が違うだけで、別に違うところはないのです。

 考え方が違うのです。「イエス様は、もう生まれながらにして神の息子だ、神が相当力をやったのだから」と思いがちですが、そうではないのです。同じ人間です。

 そうならざるを得ない所に行ったら、それはだれでも、そういうふうになるのです。私もそういうふうになれば、それはもう楽に生きてしまうでしょう。そんな、人のために苦労する、涙を流す、そういう必要はないと、そうでしょう。イエス様を「偉い」と言うのは、私たちと同じ立場で、今まで行かなかった道を開拓したから「偉い」と言うのです。考え方が違うのです。

 それで二度目の試練を勝利したあとのイエス様の立場は、相対完成、第二祝福を復帰した立場です。聖殿の主人の立場に立ち、アベルの立場に立ったというのです。

 一番目の試練の食べる問題で、イエス様は自らの立場を、サタン主管圏から完全にみ言(ことば)を中心とした立場に分立したのです。それで一番目はアベルの立場に立ったのです。これから、イエス様を中心として相対完成でき得る中心者を決定できる、二度目の試練を勝利しました。その答えは、「試みるな」というものでした。

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 次回は、「イエス様への第三試練」をお届けします。


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