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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(92)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
三、理想的な出会い

▲金元弼先生

出会いに対する先生の心掛け

 1976年のことですが、先生が幹部たちを連れて、カナダを訪問されたことがありました。その時、先生は海洋資源による食糧問題解決の道を求めて訪問されていたのですが、何日間かをそこで過ごされている間に、カナダの教会が、先生一行がカナダに来られているということを知って、ぜひ教会に先生御夫妻をお招きしたいと申し出てきました。ところが先生は、それに応じられませんでした。何回もお招きしたのに、カナダにいらっしゃったにもかかわらず、カナダの教会を訪ねられなかったのです。

 その時先生は、その責任者に、「私がこのたび来たのは、カナダ教会を訪問するためではありません。他の目的があって来たのですから、私の心はカナダの教会を訪問する準備をしていません。そのように心を尽くして来ていないのです。ですから、そういう状態では、私はカナダの教会を訪ねることはできません」ということを話されました。

 皆さん、先生が他の所を訪ねられる時には、どのように心を尽くして訪ねられるかということがお分かりいただけるでしょう。理解できますか。先生の訪問される目的がたとえ仕事のことであったとしても、教会がありますから、そこへ行ったら簡単でしょうに、先生にはそれがなかなかできないのです。

 先生の出会いに対する心掛けは、食口たちに出会うことだけでなく、韓鶴子(ハンハㇰチャ)夫人に出会うことにおいても、お子様に出会うことにおいても、私たちとは随分違うということを理解しなければならないと思います。

 普通、私たちは人とたやすく出会ってしまいますが、私たちがよく知っているように、個人は家庭のために、家庭は氏族のために、氏族は民族、国家のために、そして国家は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神のためにあります。これが善なる道であるのです。ですから、先生が韓夫人に出会う出会いというものは、先生自らが家庭を超え、民族、世界、天宙を超えて、神を愛する道を通して、韓夫人に出会う道なのです。

 これを簡単に言うと、先生が韓夫人やお子様に出会うのは、世界を愛したのちであるということです。それが、先生と韓夫人の出会い、先生の子女様に対する出会いなのです。先生は世界を愛するという道を通してでなければ、夫人やお子様に出会うことができないというのです。

 外的な目で見れば、今、先生は夫人、子女様たちと同じ家で生活していらっしゃるのですから、先生は、お子様に会うにしても、夫人に会うにしても、世界を愛してから出会われていることを忘れてはいけません。言葉を換えて言えば、先生は世界を愛してからでなくては、たとえ夫人に出会ったとしても、会っていないということです。それを私たちは、分からなくてはいけないのです。

 皆さん、世の中の家庭を見ると、どの家庭も同じ家で一緒に生活をしています。外的に見れば、そのように一緒にいて、いつも出会っていますが、もし心がそれぞれ違っているならば、内的には全然出会っていないということです。そのことは、皆さんも聞いて知っていることと思います。それは一緒に暮らしていても、一緒に暮らしていないということです。

 では、私たちはどうでしょうか。今、私個人のことを考えてみても、自分の心と体が別々に動いているとするならば、自分の心と体は一緒にいるのではなく、分かれているということなのです。もし、一つの部署において、あるいは教会において、皆が一緒にいたとしても、一人一人の心が別々であるとするならば、それは一緒にいるのではなく、別々に分かれている状態です。

 私たちは現実の自分というものを、はっきりと見つめていかなければならないと思います。それは、「消化できていない自分を知らなくてはならない」ということです。

 私たちは1年、2年と同じ教会で一緒に暮らしながら、どれだけ自分の心を打ち明けられますか。寂しい時には「私、寂しいの」、喜ばしい時には「私、とてもうれしいの」と、お互いにそういう状態の話し合いをできる人が、何人くらいいますか。そのように聞いた時に、皆さんは何人いると答えるでしょうか。そう言うと、大抵「一人」、「二人」、「いない」と答えるのです。これが現状なのです。特に、本当に自分の心情を打ち明けられる人というと、「誰もいない」ということになるのです。

 皆さん、世の中では、10年、20年、30年間、一緒に生活している夫婦の間でさえ、「あなたは私の心情をよく分かってくれない」ということがよくあるのです。これが世の中です。そして、また私たちの世界においても、それが適用されているというのです。そうですか。(はい)。私たちは、これをはっきりさせなくてはなりません。

 そういうことを考えてくると、つまり夫婦の出会い、兄弟姉妹との出会い、親との出会い、親戚との出会い、友達との出会い、これらの出会いがうまくいっていないことが分かってきます。それがはっきり分かることによって、私たちが今後、このような出会いをいかにしなければならないか、という道が開かれていくのです。

 私たちの心と体は、いい加減に出会っています。そしてまた親子の出会いも、いい加減にしています。夫婦の出会いも、いい加減にしています。そういう結論になります。ですから、さっきもお話ししたように、先生の神様との出会い、先生と韓夫人との出会い、先生の子女様に対する出会い、先生の私たちに対する出会い、それらがどういうものであるかを考えながら、解決していきたいと思います。

 例えば今、私たちが相対者に会おうと思ったら、たやすく会えるものですから、会うのはそれほど難しいものではないと考えています。しかしながら、この出会いというものが、どれほど真剣なものであり、どれほど難しいものであるかということを立証するために、次の例を挙げてみましょう。

 一人の人が神のみ言から離れて間違ったことをしたとします。そうしたときに、今までそういうことがなかった時には、相対者にたやすく会うことができたのに、間違いを犯したその瞬間、その人は、自分の相対者に会うことがなかなか難しいと感じるでしょう。そうではないですか。ということは、本当に神だけを愛した自分でない限りは、相対者を愛する、相対者と会うのは難しいということになるのです。それがはっきり分かるだろうと思います。

 つまり、私たちが神の善なる道を行き、その道を通さない限りは、自分の相対者に会うことができないということです。何か分かりますか。ところが私たちは、この相対者と夫婦の関係になると、たやすく会えるものと考えてしまいます。これは非常に間違った考え方です。

 メンバーとメンバーとの関係、メンバーとリーダーとの関係も全く同じことです。リーダーがメンバーと会う時、「私はリーダーだから、たやすく会うことができる」と思うかもしれませんが、メンバーに出会うことがいかに難しく、真剣なことであるかを忘れてはいけません。メンバーもリーダーに会う時、いつも同じ所で一緒にいますので、それほど難しくないと考えるかもしれませんが、それがどれほど難しく、真剣なものであるかを忘れてはいけないのです。

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 次回は、「世界的な出会い」をお届けします。


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