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心情開拓
心霊を育てる生活原則(82)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【モーセ路程】
敵愾心の必要性

 悪主権から離れる時は、敵愾心(てきがいしん)をもって、目的を達するまでその心を失ってはいけないのです。途中でこれを失うから、不平を言い始めるのです。今まで悪主権の中で、自分たちがいじめられたことを考えたなら、いくら腹が減っても、いくら苦労しても、死んでも感謝すべき私たちの立場だと思わなくてはなりません。敵愾心があれば、そう思えるのです。

 この韓国で日本帝国時代に、北満で、「雪の中で凍って死んでも、自分の家にも故郷にも、独立するまでは帰らない」と言って死んだ人が、どれほどいたか分かりません。愛国心があり、敵愾心のある人は、いくら自分が凍って雪の中に死んでも、負けずに闘っています。愛国者です。

 だから私たち信仰者は、敵愾心がどれほどあるか、それによって寿命が分かるのです。敵愾心がどれほどあるか、それによって、その人の信仰路程が、どこまで行ったらおしまいかが分かるのです。電池の力のように、それが寿命です。いくら苦労しても、敵愾心だけはなくしてはならないのです。それを費やしたなら、環境に埋もれてしまうのです。腹が減った、食べるのが第一だ、腹が第一。苦労してみると、食べたあとに信仰だと。こうして信仰をやめた人が、どれほどいるか知れません。精神的苦しみを知らないからです。

 エジプトで、精神的苦しみを相当味わったはずです。奴隷の生活で相当いじめられたのです。また、イスラエル民族に対して、パロを中心とした十災禍を、その敵愾心を植えつける目的でやったのに、それほど教えて教育しているのに、それが植えつけられなかったのです。

 私たちも、矛盾の人生ということを相当悩んだでしょう。だから統一教会に入った青年は、ほとんど自殺未遂した人です。韓国で、自殺しようと思ったところが、「原理」を聞いてみると、自分も生きていてやる仕事がある、自分よりも神様がこんなにもかわいそうとは思わなかった、それじゃ神の怨讐(おんしゅう)に報いてやらなくては、という決意をもってよみがえった人がいるのです。皆さん、そうでしょう。ここに来た人、みな自殺未遂者だと思ったらいいのです。私は、そう思います。そうでなければ、うそです。

 自殺しようと思ったが、この道しかないと分かった者が、この歴史を本当に逆にしなくてはならない、という敵愾心の燃えあがった人が、目的まで行く原動力をもった人なのです。そうでない人は絶対「原理」を聞きません。ペテロを見てください。ペテロは敵愾心がないから、奇跡をもって喜んでいるのです。

 「この先生と共に、私は独立するのだ、私が内務大臣か外務大臣になるのだ」と、こう思っているのです。いいことばかり考えているのです。そういう人は信仰の道を歩めないのです。絶対歩めません。サタンと戦う世界へ行くのに、いいことがあるかというのです。自分のなすべき仕事に、どれほど今憤慨しなくてはならないでしょうか。私たちを滅ぼすものが、周囲にいっぱいたまっているのです。

 信仰してみると、私たちを殺そうとするサタンを中心として、あなたたちの父母も、血統の親戚も、みな注目しています。「あいつは統一教会ででかいことを言っているけれども」と、みな見ているのです。「そうだ、私の思っているとおりになるんだ」と、こう予言してみて、見ます。「3年ぐらいあとには、あいつは大きいこと言っていたけれど……」と、こういうふうにみな私たちの滅びるのを待っています。こういう中で戦っていく者が、「何かいいことがないかな」と考えるかというのです。

 こういう世界、民族、国民、こういう人たちを、完全に占領しないと私たちは安心できないのです。だから敵愾心というものは、目的地まで行く原動力と言えるのです。

 イスラエル民族に敵愾心があれば、いくら腹が減っても、エジプトなどに未練をもちません。腹が減ると、「エジプトが良かったな」、「いくら奴隷でも、メリケン粉があってパンか何か作って食べるのだがな」と、敵愾心のない人は、こう思っているのです。

 日本が大東亜戦争に無条件降伏したあとに、帝国時代に権力をもった高級幹部たちは、すぐ落ちました。兵隊さんたちは、1カ月たっても、卵一つ食べられなかったけれど、その人たちは、肉ばかり食べていたのです。それで、負けたあとには、名古屋駅で殴られるのを見ました。兵隊さんたちは、剣を捨てて帰りましたが、勲章だけはついていました。それだけは取りたくなかったらしいです。それで駅で、「将校の野郎は、国民の生活を知らんだろう。そしてうまくうそばかり言って、軍力をもって国民をだました」と言われて殴られました。

 その人は、「帝国時代が良かった」と言うかもしれません。自分一人のことを考えるからです。歴史も民族も、あったものではない、そういう時代に、自分さえ良ければいいというのです。公的目的とか公的愛国心、公的な精神が強くないと、非原理世界に対して、腹が立って仕方がありません。考えれば腹が立ってきます。

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 次回は、「開拓時代に培った敵愾心」をお届けします。


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