信仰と「哲学」114
希望の哲学(28)
利害を超えた愛の世界とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 不思議なことです。
 「充足感」という、同じ言葉でも、体と心のそれは明らかに異なります。
 後者は「消えることのない」充足感です。それを人間は「幸福」と呼ぶのだと思います。

 ソクラテスの言う「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」(『パイドン』プラトン著、岩波文庫)という言葉も、心の充足と切り離して考えることはできません。心の充足は死を超えるからです。

 すでに紹介しましたが、故人の渡部昇一氏(上智大学名誉教授、英語学者)が自著『実践 快老生活』(PHP新書)の中で記したエピソードをもう一度かみ締めたいと思います。

 「私には姉が二人いた。上の姉は、運動も得意、勉強も得意な、非常に優秀な子供だった。書道もうまく、たしか庄内地方で金賞などももらっていたように思う。彼女には好きな人がいたのだが、その人は戦争で亡くなってしまった。その後、短期間は結婚したものの、相性が合わずに離婚し、それからずっと独り身だった。父が東京へ出てきて以後も姉はずっと鶴岡の旧宅に住まい、一時は、部屋を貸すような仕事もやっていた。
 その姉が晩年を迎えたころ、私は姉に『人生で一番幸せだったのは何か』と聞いたことがある。答えは意外なものだった。
 弟である私が子供連れで帰省してきたときに、その私の子供たちを連れて海で遊んだり、ちょっとしたお菓子を買ってあげたり、子供たちから『おばさま』などと呼ばれるのが、いちばんうれしかった―長姉はそういったのである。(略)
 最近、社会でキャリアを積んだ女性たちの幾人かが、『おひとりさまの老後』とか『家族という病』などというタイトルの本を書いている。だが、そういう本を読んでみると、どうも『さびしいけれど、我慢しましょう』という声が聞こえてくるような気がしてくる。(略)
 姉は本当に私の子供たちとあえることが楽しかったし、毎年、こころからそれを楽しみにしていたのだ。彼女自身の子供だったら、もっと嬉しかったかもしれない。けれども、傍目にはさびしい人生を送ったように見える姉は、私の子供に会えたことが『いちばんの幸せ』だったと、しみじみ述懐したのである。そのことを思い出すと、私は胸の奥が熱くなる」

 渡部氏のお姉さんが人生を回顧する意識は、「すでに死んでしまったもの」に近いものです。そこには、利害を超えた愛による幸福の「世界」だけが残っていることを教えてくれています。それは日常的なものでも十分なのです。

 次回は、私のささやかな体験を紹介します。