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信仰と「哲学」115
希望の哲学(29)
ささやかな私の体験

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「これまでの人生で一番幸せだったことは何か?」と誰かに聞かれたら、迷わず「私の次男のひとり娘・Kちゃんとの5年間です」と、私は答えるでしょう。その5年間は、次男の家族と一緒に暮らしていました。

 ちょうど定年を迎えて顧問の立場で仕事をするようになったこともあり、ある程度自分でスケジュールの管理もできたので、孫の世話をする余裕が生まれたのです。

 Kちゃんは2歳の時から幼稚園に園バスで通い始めました。私はできる限り園バスで帰ってくるKちゃんを迎えに行くようにしました。

 私はこの間、多くのことを学びました。もちろんKちゃんからです。身体的にも心の在り方においても実に多くのことを学びました。

 まず身体的なことです。特にKちゃんの走る姿や座る姿に、「自然であること」とはこういうことなのかという、ある種の人間の「基準」ともいえる姿を発見したのです。

 背筋を伸ばして前傾姿勢で走る姿、背筋を伸ばしてごく自然に座る姿、大人が失ってしまった体のバランスが実によく保たれているのです。

 体が左右に少し揺れながら歩くようになっていた自分の歩き方や、自分の座り方などがいかに不自然なものであるのかを実感で知ったのです。

 心の在り方も学びました。Kちゃんは全力で私に甘えました。2歳の時から6歳の小学校入学までの期間、一緒に暮らしていた祖父である私がKちゃんにとって一番甘えることのできる存在だったのでしょう。

 園バスを降りてから家まで帰る途中に公園があります。そこでしっかりと遊んでから帰るのです。その距離は1キロほどだったと思います。公園の遊具、ブランコやシーソー、砂場や鉄棒、滑り台などで30分ほど遊びます。

 帰りは坂道になっていました。公園から家までは私が「おんぶ」して帰ります。夏の暑い日も汗だくになりながら歩きますが、Kちゃんはすぐに疲れて私の背中で眠ります。
 おんぶする私も大変なのですが、でもこの時が「一番幸せ」でした。
 合理的な説明は不可能です。体は疲れるのですが、ただただ心情が満たされるという幸福感なのです。

 家に帰ってからも一緒にコンビニに行ったり、別の公園に遊びに行ったりしました。その途中でまた、「おんぶ」なのです。

 甘えられるということが、全面的に信頼されるということが、こんなにもうれしいものなのか、心情が満たされるものなのか。これまで想像することもできない心情の世界でした。本当に楽しい時間、5年という期間でした。

 今の私にとって、この「一番幸せ」だったことが、永遠に消えない充足感が、これまで生きていて良かったということであり、この「感謝」が、「死ねる」という気持ちに自然につながっているのです。