信仰と「哲学」113
希望の哲学(27)
「常在戦場」

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「すでに死んでしまったものと思いなさい」

 やはり、原点に戻ってしまいます。
 1990年代半ば、文鮮明(ムン・ソンミョン)師が直接投げかけてくださった言葉をかみ締める日々です。

 前回までは、死について「関係性の断絶」の意味で使ってきました。自己を中心とする関係性を断つという意味で使ってきましたが、今回は、身体的な死を超える意味について述べてみたいと思います。

 ソクラテスは、「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」(『パイドン』プラトン著、岩波文庫)と言いました。
 哲学するということは、ひたすら純粋に考えるということであり、身体的な欲求に振り回されず、惑わされず、真理を求め続けること。それは結果として思考(魂)と身体を分離させようとすることであり、すなわち死を準備することなのだとソクラテスは語ったといいます。

▲ソクラテスの最期を描いた『ソクラテスの死』(ジャック=ルイ・ダヴィッド画、1787年/ウィキペディアより)

 哲学は、「いかに生きるべきか」すなわち「善く生きる」とはどういうことなのかを問い続けることです。
 宇宙の本体を問う人々とは違い、ソクラテスは善く生きるとはどういうことかを問うたのです。それが「死ぬことの練習」だというのです。
 死んでも本望、ここで死ねるのであればそれを受け入れることができるという心の準備をするということなのでしょう。

 死を見つめながらそこから逃げないという心構えが持てるということ、それが哲学の目標であるとソクラテスは言い、文鮮明師もそのことを指導してくださったと思うのです。しかしその構えは一朝一夕にできるものではなく、誰かから言われたからすぐに持てるものでもないのです。

 前提として、消えることのない心の充足感を内に秘めていなければならないと思います。死は身体の消滅を意味しますので、積み重ねられた心の充足感があって初めて、それを超える覚悟ができるといえるでしょう。
 重要なことは「心の充足感」です。身体的充足感ではありません。前者はいつまでも存続し、後者は常に流れていきます。

 久しぶりに映画を見ました。
 役所広司さんが主演の『峠』です。長岡藩(現在の新潟県長岡市)で郡司総督を勤めた河井継之助の戦いを描いています。「最後のサムライ」という言葉も説明に添えられていました。

 幕末の日本は、薩摩藩や長州藩が主導して、倒幕への道を進み始めます。倒幕か、佐幕かに二分された世の中にあって、河井継之助はそのどちらにも与(くみ)せず、「非戦中立」を保ち、ひたすら民の暮らしを豊かにすることで長岡を発展させようとしました。しかし、新政府軍代表との交渉は決裂、凄惨(せいさん)な戦いの渦中で負傷し、会津で生涯を閉じました。

 映画の中では、旗などに記された「常在戦場」の文字が印象深く浮き上がります。
 意味は、読んで字のごとく「常に戦場にあるように心を持(じ)し、ことに処す」というものですが、元々長岡藩に古くから名を残す牧野氏の家風でした。

 後に、連合艦隊司令長官として長年活躍した山本五十六などが自身の心得として「常在戦場」を使ったことから、「常に気を緩めず事に当たることが大切である」という意味で広く使われるようになったとされています。

 河井や山本が心にとどめた「常在戦場」は、言葉の重みとして「気を緩めるな」という程度のものではなかったと思います。「死の準備」というものであっただろうと思うのです。