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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(68)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
一、何よりも神のものを愛する

▲金元弼先生

み言と一致化する努力

 初期のころ先生は、若い人の話も、年取っている人の話も、おじいさんの話も、おばあさんの話も、よく聞いてくださいました。そのころは、おじいさん、おばあさんを仲間にして話し合ってくださった時期だと思います。中間期には、壮年の方とよくお話しされました。今の時期は青年の時代です。

 先生は、「人のために尽くしなさい。指導者はこういうものです」といろいろ話してくださいますけれども、それは御自身が勝利された上で話してくださるみ言なのです。

 先生のみ言がどこからどのようにして出てくるのか、ということを考えた時の結論です。「心情」という言葉も、1960年の23年前から初めて使われました。そういうのはたくさんあります。

 私たちは、自分の頭の中にあるものだったら、新しい人の前でも、一から百まで全部話そうとします。自分でよく分かっていないことでも、全部話してしまいます。しかし自分のためではなく、その人のために話しているのですから、相手の人が話を聞くことによってプラスになり、神の心情にもっと近くなるのを確かめながら話していかなければ、かえってその人にとってマイナスになることがあります。「正しい話をしてあげたから、その人が傷ついたとしても、私の責任ではない。彼の責任だ」と考えてはいけません。いくらおいしい食べ物でも、それを消化できない子供に与えたら、生かすのではなく殺すことになります。

 どんなにいいものでも、時至らない時に、時の話をすることは罪になります。アダムとエバの愛も、時至っての行為なら喜びでしたが、時至らない時に時のことをしたので罪となりました。皆さんも、たまには良くないうわさを聞いて、精神的にまいってしまうことがあるでしょう。それは、時至ってない時に、時の話を聞いたからです。

 ですから、そういうことを話したら、話した人が責任を取らなければなりません。話をする目的は、聞く人のためにするのですから、かえってマイナス的なものを与えた場合には、その人が責任を取らなければなりません。皆様が分かっていることを人に与える時には、必ずその人のために与えるということを忘れず、その人のことをよく分かって話してあげなければいけません。ですから、人によって話すことも違ってくるのです。

 先生が勝利されたみ言を下さるということの理由を、一つお話しします。神はみ言と一致化することを願って、私たちにみ言を与えてくださいます。神は、最初の人間にみ言を与えました。しかし、そのみ言と一致化できませんでした。祝福を受けましたが、自分のものにできず、愛を受けましたが、それと一致化した人間になり得ませんでした。

 神がみ言や祝福を与える目的とは何でしょうか。それは神のみ言や愛と一致化することによって、神と一つになることです。そうすれば、いろいろな人に愛を与えることができるのです。愛の根本、み言の根本である神と一致化すれば、与えても、与えても、絶えることがありません。

 ところが、私たちは一致化する前にどんどん与えていきますから、与えれば与えるほど枯渇を感じます。ですから私たちはまず、み言と一致化する期間が必要なのです。み言を理解した、分かったというだけでは、まだまだ一致化したとは言えません。み言どおりに実行することによって、初めて自分のものになり始めます。これが一致化です。それも、何度か回数を経なければいけないでしょう。そこで初めて、み言と一致化する自分となります。

 私たちは頭で理解し、分かった時点でどんどん話をしていきます。けれども、人に「こうしなさい」と言う前に、自分自身で実行し、実践することです。頭で分かって、さらに体で行っていかなければなりません。

 皆さんがスケートをするとします。そのためには、スケートはどのようにするのかを習い、そのとおりに自分でやってみて、初めてはっきり分かってくるのです。

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 次回は、「み言を実践すれば神が分かる」をお届けします。


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