信仰と「哲学」106
希望の哲学(20)
信仰者の絶望とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 私自身を含む信仰者の「絶望」について記してみます。

 『原理講論』には、以下のような記述があります。

 「このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない』(ロマ三・1011)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは『わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう』(ロマ七・2224)と慨嘆したのであった」(総序、22ページ)

 「肢体に存在する罪の法則」とは、自己中心的であるということです。自分の地位、名誉、立場、体面、過分な財産や食欲、性欲を指していると言えるでしょう。
 このような自己の現実は、真理を学んで神の存在を意識し、倫理・道徳の基準が何であるかを意識して生活するだけで克服、解決できるものではありません。

 『原理講論』には、さらに次のように記されています。

 「いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着(どうちゃく)を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである」(同、28~29ページ)

 文鮮明(ムン・ソンミョン)先生のみ言に出合い、その最初に記されている現存在・人間としての課題を再認識しました。そして信仰者としての歩みを始めました。
 変わったのは、何が「罪の法則」なのかということを意識して生活することができたことです。重要なことです。

 しかし本当の自己にはなかなか到達できません。できそうになってもまた転げ落ち、次第にそのような繰り返しに慣れてしまうのです。
 それは私自身の絶望でした。信仰者としての「絶望」です。繰り返し頭をもたげる絶望を、日常の仕事や人間関係の中で押し殺していったのです。

 そこには「これが救いだ」「これが人間の本然の姿(思いと行動)だ」という実感はありませんでした。