信仰と「哲学」105
希望の哲学(19)
倫理的実存と絶望

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 キルケゴール(18131855)の哲学は、信仰の哲学です。
 その核心は、不安・絶望・苦悩などを通じて、本来の自己を求め、到達しようとする生活信仰哲学といえるでしょう。

 キルケゴールは実存哲学の祖といわれます。
 実存とは、「今、ここに生きている人間の現実存在」を意味しており、ヘーゲル哲学に展開されるような客観的で抽象的な思考では把握し得ないという切実さがありました。

 実存は、個別者としての人間の現実的・具体的な在り方を指し、抽象的な「人」に解消し得ない、個別的・具体的な「この私」なのです。

 実存にとって最も重要な要素は主体性です。
 それは自己の生き方を自ら選択し、決断する、主体的な人間の在り方を指しています。よって真理は、主体的真理でなければならないのです。

▲キルケゴール(1840年のスケッチ/ウィキペディアより)

 私にとって真理とは、ソクラテスのように「いかに生きるべきか」を問いかけながら、自らの決断と実行を通して、人生で主体的に感得され、自らのものとして実現される真理でなければなりません。

 存在論や本体論など、存在あるいはモノについての一般的・普遍的な真理と違い、私にとっての個別・具体的な真理であり、かけがえのない私の真実の人生を生きることによって実現されるのです。

 繰り返しになりますが、キルケゴールは主体性こそが真理であると語り、モノについて認識される客観的真理と異なり、自己がいかに生きるかという実存の主体性そのものに真理を求めました。

 キルケゴールは、本来的な自己の在り方を求めていく実存が、「絶望」をきっかけに美的・倫理的・宗教的という三つの段階へと深まっていくと述べています。

 最初が「美的実存」の段階です。
 ひたすら刹那的な快楽や官能的な満足を追い求めて生きる人生の段階です。
 常に快楽を味わえる目新しい対象を追い続けますが、結局、いつまでも欲求が満たされないばかりか、享楽の中で自分を見失い、倦怠(けんたい)感、虚無感にとらわれて行き詰まり、絶望に至るというのです。

 次に「倫理的実存」の段階です。
 自己の良心に従って倫理的な義務を果たし、人生を真剣に生きようとする人生の段階です。
 しかし、良心的であろうとすればするほど、自己の罪深さや無力さを思い知らされて絶望に至るのです。

 私が、共産主義運動に関わって「絶望」し、さらに統一運動に関わることによって良心の覚醒がなされながらも、明らかになる自己自体内の闘争に疲弊して「絶望」に至った次元がまさに「倫理的実存」の段階といえるでしょう。