信仰と「哲学」107
希望の哲学(21)
絶望は神の恩賜だった

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 人間は、「絶望」を契機に美的・倫理的・宗教的という三つの段階へと深まるとキルケゴールは述べています。
 最初が「美的実存」の段階、次に「倫理的実存」の段階、最後に「宗教的実存」の段階です。

 宗教的実存は、不安と絶望の中にありながら、神の前にただ一人立ち、神への信仰へと飛躍する人生の段階です。
 人間は誰しも、自己の全存在を懸けた決断によって、永遠の神が時間の中に現れるという逆説を受け入れて、神と向かい合う時に真実の自己を見いだすことができるというのです。

 「永遠の神が時間の中に現れる」とは、神は「今、生きてここに共にいましたもう」という純粋経験の感得です。
 死生決断、死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ、「すでに死んでしまったものと思え」(文鮮明〈ムン・ソンミョン〉先生)という教示の実践です。

 宗教的段階では、人間は永遠の神と関わることを絶対的目的とし、世俗の生活における享楽や欲望などの有限な目的を放棄するのです。
 外面的には世俗生活に身を置きながらも、精神の内面においては世俗の社会と決別して、永遠の神の前にただ一人で立つ単独者として立つことができる段階です。

 キルケゴールは自著『おそれとおののき』(1843年刊行)の中で、旧約聖書のアブラハムの物語をテーマに、人は常識や理性を超えて神を信じることができるかを自らに問うています。

 ご存じのように、アブラハムは愛するひとり子イサクを燔祭(はんさい)としてささげよと命じられ、3日間の行程を経てモリヤの山に行き、イサクの命を絶とうと剣を振り上げたのです。

▲アブラハムとたきぎを背負うイサク(ギュスターヴ・ドレ画)

 世俗的生活の全て、地位、名誉、財産を含む全てのこの世の希望を完全に捨てる決断、すなわち「死なん」としたのです。
 その瞬間、「あなたの信仰は分かった。その子を殺してはならない」という、「今、生きて共にある」神の声を聞いたのです。

 ソクラテスはいかに生きるべきかを問いかけながら、自らの決断と実行を通して人生で主体的に実現される真理、二度とないかけがえのない私の本当の人生を生きることによって実現されるこの主体性こそが真理であると強調しました。

 絶望は、自己をこの世に存在させた根拠である神との関係を失い、本来の自己を見失った状態において不可避的に訪れるものです。
 別の視点に立てば、絶望状態は神の導きであり恩賜なのです。

 人間は、本来の自己自身であるために、この自己を生み出した神のうちに自己を透明(クリスタルのように)に基礎付け、自己の根拠としての神の前に立つとき、真の自己を回復して絶望から抜け出すことができるのです。