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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(56)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道

▲金元弼先生

朴正華氏を連れて共に南下

 そうこうするうちに、平壌の人たちはみな避難してしまいました。ところが先生は、そういう一刻を争う時であるにもかかわらず、今度は、「君、これから朴正華(パㇰ・チョンファ)さんを連れてきなさい」と私におっしゃるのです。

 それで私が朴さんを訪ねると、朴さんの家族は、(足を折っていて動けない朴さんがいては)自分たちの避難に差し支えるということで、自転車一台と犬一匹を残して先に行ってしまったというのです。取り残された朴さんは、先生までも自分を捨てて行ってしまったのではないかと思い、泣いていたのでした。ところが、そのような先生のお気持ちを知って、朴さんは、あまりのうれしさにどうすることもできないほど喜びました。早速、彼を自転車に乗せて先生の所に連れていくと、先生がその自転車を押していくことをお決めになり、私はそのあとから荷物を背負ってついていきました。それは雪の降る寒い冬の日でした。

 こうして私たちの避難生活は、124日から始まりました。あまりに急いだので、婦人たちを残して、男性だけが避難しました。その時は、「数日後には、また帰ってこられる」と思っていたからです。

 大きな道は作戦上、国連軍が遮断してしまったので、私たちは山道を行かなければならなくなりました。中共軍の介入で砲声が耳元に聞こえ、避難民と国連軍がみな下っていったので、人々の心は非常に慌ただしくなりました。そんな時、坂道を越える前に休んでいると、朴正華さんが「先生、このままでは私のために二人とも死んでしまいます。私を残して先に行ってください」と言うのです。すると先生は、「神のみ旨で因縁をもった私たちは、死んでも一緒に死ぬし、生きるのも共に生きなければならない」と言われました。私たちはその言葉に希望を得て、再び立ち上がったのでした。

 私たちは、黄海道青丹(ファンヘドチョンダン){海州(ヘヂュ)と延安(ヨンアン)の間}にある龍媒島(ヨンメド)から船で仁川(インチョン)に直行するために、3キロ余りの道のりを休まず歩き、青龍半島南端にある確山里(ファㇰサンリ)村に着いたのは、早朝2時か3時くらいでした。

 そこから龍媒島までの400メートルほどの泥道を、寒い冬、ズボンをまくり上げて、私は自転車を背負い、先生は朴さんをおぶって渡り始めました。電気がないために暗く、海の向こうにある島の、綿に油をつけてともしたかすかな灯を目標にして進みました。満潮になると渡れないので、引き潮の時に渡りましたが、それでも水が所々にたまり、また砂でなく泥なので滑りやすく、足が吸い込まれそうで非常に危険でした。

 また、朴さんはギプスをした足を突っ張っているので、おぶって歩くのは大変なことでした。途中で一度でも倒れてしまえば、医師もいないので治すこともできない、そういう状態の中を、やっとの思いで渡りました。

 しかし、着いてから乗ろうと思っていた船に乗ることができず、仕方なく再び確山里に戻ることになったのです。

 おなかはすき、寒い中を、また海を渡らなければならないことを思うと、朴さんも私も非常に心細くなってきました。すると先生は、それに気づかれて、私たちに「きょう、私たちを接待してくれる良い貴人に会うだろう」とおっしゃいました。その話にとても元気を得て、再び海を渡ったのです。

 村に着いた時は、すっかり日が沈み、一段と寒くなっていました。ところが、その村を守る人たちが、先生を人民軍の敗残兵と間違って殴りつけてきました。南韓の軍人は髪が長いのですが、人民軍は髪を短く切っていたからです。それで先生は、荷物の中から聖書を出して、自分は牧師だが刑務所で髪を切られたのだと説明しました。村人たちは先生が本当の牧師であるかどうかを知るために、聖書を開いて聖句の内容をいろいろと尋ねましたが、先生は聖書を見もしないですべて話されたので、やっと帰してくれました。

 途中、道端の明かりを訪ねて戸をたたくと、若い夫婦が迎えてくれ、良い部屋と温かい食べ物を用意してくれました。

 次の日、私はきのう先生がおっしゃった言葉どおりだということに気づきました。きのう、私たちは弱い心をもってしまって、先生に「お疲れさまでした」と慰めの言葉を言えなかったので、あのような言葉を先生に言わせてしまったということを悟ったのです。その「良い貴人」に会うには会えましたが、先生が村人たちから殴られたことを考えると、私たちが受けなければならない鞭(むち)を、先生が代わって受けられたのではないかと思うのです。このようなことを見て、すべての恵みは、先生がその苦難を受けられた代価として私たちに与えられた、ということを悟るようになりました。

 朝は早く起きて食事を取ると、そのまま歩き、日が暮れて方向がつかめなくなると、どこの家でも構わず入り、御飯を作って食べる、というのが避難の日課でした。

 ある時、夜明け前に空き家で休むことになり、御飯を作るための薪を探したのですが、見当たりません。冬なので乾いた草もなく、その家でも壊さない限り木がないので、困り果ててさまよっていると、我知らずその村の共同墓地に着いていました。ふと見ると、両側に木の付いたかますの担架があったので、喜んでその木を引っ張ってきて、火をたき始めました。ところがその担架は、その村の死人を運ぶのに使われたものだったのです。

 先生と朴さんは寒い部屋の中に座っていらっしゃったのですが、先生が部屋の中から戸も開けずに、私に「何を燃やしているのか」と尋ねられました。それで訳を話すと、先生は「どんな木でもすべて燃やすのではないよ」とおっしゃいました。先生は部屋の中にいらっしゃっても、不浄な木を燃やしていることを知っていらっしゃったのです。

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 次回は、「自分の考えでは測れない先生」をお届けします。


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