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心情開拓
心霊を育てる生活原則(49)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

心配し責任をもつ人と一つになる

 必ず神の味方の者、家庭なら家庭で、一番経済的に、あるいは家庭の全責任をもって心配する人と、一緒にならなければならないのです。

 教会なら、この教会に一番責任をもって心配している人を探さなくてはならないのです。教会で一番の立場で、情的に授受する人は、歴史が証明しているように、教会長ではないのです。教会長は僕(しもべ)の職をもって、みんなに褒められ、みんなから給料をもらって、職業化した宗教家であって、本当の情的主人ではないことが多いのです。それが現在の祭司長、あるいは牧師たちです。

 この牧師たちは、原理講義に呼んだら、「やあ、『原理』はいいけれども、長老派教会で追い出されるので、それが怖い。この統一教会へ来たら、給料いくらもらえますか。私は牧師ですが、統一教会へ来ても牧師の位置で生活に責任をもってくれて、自分の家庭の責任をもってくれるんでしたら……」と、こう言うのです。これはとんでもない話です。

 自分の道を行きながら、だれに給料をもらおうというのですか。死のうとしていた道であり、滅ぼうとしていた道を歩いていたのであり、また、家庭も神から祝福を受け、認められた家庭であるのかと聞いてみなくてはならないのです。自分と自分の家庭が神から認められ、神の仕事をやるように召されているのか、それを知らないで、「給料をいくらくれるか」とは話にならないのです。

 また統一教会の祝福を受けた地区長でも、任命されたから地区長の位置にいるのであって、情的にまだ距離がある人は、自分の使命を職業的に取り扱っているのです。だから、その家庭の食口(シック)なら、何をもって食口というかというと、給料をたくさんもらってくるからその家庭の一番の主人だというのではなく、愛情でもって一番父母の事情を知った息子、たとえその息子が不具者であっても、父母の悲しみや父母の願いを一番知った者が、その家庭の主流の食口なのです。

 それでは、神の立場ではどうでしょうか。神の責任は、私たちの行く道に門をつくることです。だから、アベルはこの家庭の門ですから、カインはアベルを通じなければならず、アダムはカインを通じ、エバはアダムを通じて行くのです。サタンだけはその門を通れず、門の外へ落ちるようになっています。そういうふうにして、神を中心とした主管圏をつくろうとした信仰基台であり、横的な情を結んで通過させたのが実体基台であったのです。

 日本も今まで外的信仰基台、外的実体基台をやる期間が過ぎて、777双の家庭ができあがったのは、内的信仰基台をつくる時が来たからです。もちろん、夫婦もどういう夫婦であるかというと、その家庭的問題よりも、天使長の立場、カインの立場、アベルの立場で、信仰の父母の立場、次には真の父母との関係が結ばれる基台になるのです。

 この家庭で、私たちの行くべき情的な道が開拓されているのです。だから、それぞれ天使長も使命を果たさなくてはならないし、カインの立場も使命を果たさなくてはならないし、アベルの立場でも使命を果たさなくてはならないのです。今、私たちはこの三つの立場を全部ひっくるめてやっているのです。あなたたちは天使長であり、カインであり、アベルであるので、これをひっくるめて、6000年かかったのを高速度に3年くらいでやってしまわなければならないのです。
 この3年間で、天使長の使命を、僕の使命をよく全うしながら、それからカインはアベルに侍りながら、それから自分の霊の子女を愛しながら、アベルの立場を愛し、尊敬を受けながら、今こういう立場をひっくるめて、私たちは使命を果たしているのです。

 しかし、天使長の使命だけで喜んでいる人もいるし、カインの立場で不平を言い、ぶつぶつ文句を言いながらアベルを主管しながらでも、まだその立場で信仰している人もいるし、アベルの立場に到達する信仰者は、ごく少ないのです。

 一つの教会の中に、アベルの立場の人が3人いれば、教会は非常に発展するのです。しかし、天使長は多いし、不平を言いながら信仰する信仰者も多く、なかなかアベルの立場で人を指導し、堕落性を脱ごうとする祭司長の立場、もう殺された立場、だれにもぶつからない、自分は否定されてもみ旨しか知らない、そんな立場の人がいないのです。

 一生涯イエス様は、アベルとしての祭物だったのです。祭物は世間に対して何も言わない、アベルは世間に対して何も言わないのです。だから統一教会も、国家に対して何も言わないのです。

 だから、カインの立場からアベルの立場まで、私たちは早く情的に乗り越えて、内的には父母の心をもって、外的には天使長の立場でいるのです。私たちは、時代的な恵沢によって、父母の実情を学んでいるから、内的には父母を知って、生活においては外的な天使長の使命から復帰しなければならず、自分がアダムの家庭の、どこに属しているかをよく知っていなければいけないのです。善の天使長の立場か、それともカインの立場か、それともアベルの立場の自分かということを、よく知らなければなりません。

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 次回は、「家庭の重要性」をお届けします。


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