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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(46)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

犠牲と奉仕にサタンは屈伏

 先生は28か月という間、牢屋でどういう仕事をされたか、お話ししたいと思います。

 朴正華(パㇰチョンファ)さんは、先生が天の愛する、天に遣わされた方であることを知りました。それで、先生が刑務所の中で働かれる仕事があまりにも厳しいと感じ、また弟子ですから、先生が苦痛を受けるのは自分の苦しみのように感じました。そこで先生に、彼は総監督でしたから、「そういう苦しいことをしてはいけません。私が話をすれば、非常にたやすい仕事に就けますから、ぜひとも、そちらを選ぶように……」と言いました。しかし先生は、「この刑務所の中で一番つらい仕事は何か」とお聞きになり、その一番つらい仕事を、自ら喜んでお選びになったのです。サタンはいろいろな形で、一番近い人を通して試練をしてくるのです。神によって導かれ、み旨を知って従ってきた人たちが勧めることならば、喜んで受け入れなければならないように思うのですが、先生は、そうはなさらなかったのです。

 復帰摂理の中で、神のみ旨のためにすべてを尽くして死んでいったたくさんの先祖、先人、先者たちがいることを考え、先生は最も難しい仕事を探し求めて、その仕事に誰よりも尽くしきることをお決めになったのです。それによって、今まで死んでいったすべての人たちの恨みを解放し、蕩減復帰するという一念でいらっしゃったのです。死んでいった人たちは、神のみ旨のために苦しみながらも、成功を見ることができなかったのです。ですから、先生は、そういう人と同じような難しいところで勝利することによって、すべての人たちが解放されていくのだと考えられたのです。

 皆さん、ある人が非常に寂しい中にあって、成そうとしたことを成し得ずして、勝利し得ずして霊界へ行ったとしましょう。そういう人の恨みを、どのようにしたら解放できるでしょうか。それは、その人が苦しんだのと同じ立場に立った人が、それを勝利することで解放されていくのです。自分にはできなかったことを、この人がやってくれたのだから。

 考えてごらんなさい。サタンと闘って負けたとします。代わりの人が立って闘いましたが、また負けてしまいました。この人たちは、同じ目的をもってやっているのです。そして、最後の人が闘って勝利しました。そうしたら、この人たちが十人だとすると、人は違うけれども、サタンと闘うというみ旨を中心として見たなら、同じ目的の人なのです。ですから、最後の人が勝利することによって、勝利できなかった人たちの恨みは、全部払われていくというのです。自分が勝利したという立場に立っていきます。

 では皆さん、第一のアダム、第二のアダム、第三のアダムについて考えてごらんなさい。第一のアダムは失敗しました。第二のアダムも完全には成功しませんでした。それゆえに恨みがあるのです。しかし、第三のアダムが勝利することによって、第一のアダムも、第二のアダムも、全部が勝利したという立場に立つのです。

 収容所、刑務所は地獄と同じであり、その地獄の中でも一番難しいところを勝利することによって、今まで勝利できずに復帰摂理の中で倒れていった人の、すべての恨みを晴らしてあげようというのが先生の立場でした。それで、一番難しい仕事を見つけて、それを勝利しなければならなかったのです。先生が28カ月の間に3回の模範労働者賞をもらったということは、先生は完全勝利することができたということです。それは、サタンが先生を認めたことになるのです。

 私たちはこのように、神様から、メシヤから、天使から、そして人々から、「あなたこそ真の子女です」という認定を受けなければならないのです。さらに、サタンから認められなければなりません。ですから、私たちは、360軒の人々から、「あの人は本当に神の子です。間違いありません」と認められなければ勝利できません。

 そして、サタンから認められるためには、サタンができないことをしなければなりません。サタンには、犠牲、奉仕ということはありません。だからこそ、犠牲となり、奉仕する人の前には、サタンもそれを認めざるを得なくなるというのです。自分ができないことをするから、サタンは認めるというのです。

 皆さん、愛というのは、ちょうど明かりのようなものです。昆虫が明かりを求めて集まるように、すべての人はもっと明るい所に集まります。明かりとは、高い愛をいうのであり、高い愛のある所には、すべての存在が集まってきます。愛は、生命、満足、理想の、すべての根本になりますから、サタンも好みます。

 ところがサタンは、愛を生命視できても、犠牲の愛を行うことはできないのです。天使長は、自己中心の愛から始まり、犠牲的愛、「ために尽くす」愛をなし得なかったので堕落したのです。ですから、私たちが犠牲の愛を行うときに、サタンは取り除かれていくのです。サタンを取り除く唯一の道は、「ために尽くす」以外に何もありません。

 イエス様が、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ1037)というみ言を下さったのは、真の神の愛を引き継がせるためであったのです。サタンと因縁のある人は、その因縁を取り除かない限りは、神の愛を受けることはできません。ですから、サタンとの因縁を切るために、犠牲的な愛を行うことを願ったのです。そのために神は、人間に必ず、犠牲的愛を提言したのです。

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 次回は、「肥料詰めの重労働」をお届けします。


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