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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(47)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

肥料詰めの重労働

 食事は非常に良くない状態であり、人々には労働があまりにも重いものでしたから、先生が周囲の人を見て、あの人は7カ月、あるいは3カ月も生き延びないだろうと思えば、必ずその期間を越えずに死んでいくという状態でした。

 興南の工場には、戦争前から肥料が山のように積み重ねられていたのですが、戦争後は人手が足りず、その肥料は岩のように固まっていました。それで、仕事というのは、肥料の山をダイナマイトで爆破して崩し、それを荷造りすることでした。それは窒素肥料でした。10人が一組になって行う仕事で、共産主義社会にあるように、必ず責任量がありました。それができないときには、少ない食料が、さらに減らされます。

 まず、肥料の山がここにあるとしましょう。10人が一組になり、2人ずつ5つのパートに分かれるのです。最初に、肥料の山を爆破して壊す人がいます。そして40キロ入りのかますの中に、2人で入れます。それを重さを量る秤(はかり)まで持ち運んで、その上に載せます。重さを量って降ろします。そして、それを縄で縛って荷造りします。荷造りしたものを持っていって、貨車の中に積み込みます。

 この中で一番難しいのは、かますを秤の上に置くことです。というのは、秤が地面よりちょっと高い所にあるからです。また40キロのかますを持ち運んで、秤の上に置くのですが、あとの山を少しずつ壊すので、距離がどんどんどんどんと長くなっていき、運ぶ距離が長くなるのです。

 40キロの物を引いて運んで秤の上に置くのを、一日8時間の間に、一組が200かますをやらなければならないのです。できなければ、10人の人たちの食事が全部減らされるのです。それでみな、命懸けでやらなければなりませんでした。その中でも一番つらい、かますを秤の上まで運んで置く仕事を、先生は選んで成し遂げたのです。一年休んでもその報酬で生活できるほどの重労働であるそうです。どんな健康な人でも、7カ月その仕事をしたなら、体を痛めて肺病になったりするのです。それでも先生は、その仕事を選んだのです。ところが先生とペアになった人が、肥料を秤の上に上げなければならないのに仕事をしなかったので、先生は一人でするようになりました。

 私が先生の所を訪問した時のことですが、煙突からさえ黄色い硫酸の煙が出ており、工場の近くを通る人々は、あまりにもそれがくさいので、走って通り過ぎなければいけないという状態でした。ですから、工場の中の空気は大変なものです。先生は牢屋から出られたのち、長い間、いつもいつも咳(せき)をしていらっしゃいました。

 次に、かますのことをちょっとお話しします。2300年前、韓国は農業国だったので、わらぶき屋根でした。今のように、麻やナイロンのロープとかはありませんから、麦わらでかますという袋を作りました。「韓国での先生」という題の映画の中で、肥料の山とか、肥料の入ったかますを列車の中に運ぶのを見ました。また、先生が収容されていた肥料工場で、共産党がその仕事をやっている場面がありました。

 かますというのは、非常にざらざらして硬く、ナイロンのように滑らかではないために、長い間やっていると、どんどん指の皮膚が裂かれてしまい、血が出たりして、もう治療ができなくなります。「骨が見えるほどに、どんどん深く掘れていく」と先生は話していらっしゃいました。それに硫酸アンモニウム(硫安)がどんどん付きますから、骨が見えるようになったところの痛みというのは、形容し難いものです。

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 次回は、「蕩減復帰のための苦労」をお届けします。


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